”ウィリアム・ジェームズ曰く
われわれの正常な目覚めた意識というのは、一種の特殊なタイプの意識にすぎない。
それがどんなに圧倒的なものであれ、そこから薄い皮膜に隔てられたところには、まったく異なる潜在的な形態の意識がいくつも存在している。われわれはその存在を想像だにせず一生を過ごしかねない。
しかし必要な刺激に遭えば、わずかに触れただけで、そうした意識はその全体像をあらわにする。
おそらく、どこかに応用と適合の場をもつ、明確な精神状態の数々。
これらの異質な形態の意識をまったく無視した宇宙観は、いかなるものであれ、全体性という点において完璧なものではありえない。
問題はそれらをどう扱うかということである。
それらが通常の意識とあまりにもかけ離れているからだ。それらはある一定の姿勢は示すが公式は明かしえず、ある領域を開示はするが、その地図を与えてはくれない。
と ジェームズは締めくくります
それらの意識の諸状態は、われわれがリアリティについて未熟な結論を下すことを許さない。
彼の忠告にもかかわらず われわれ(の大半)はリアリティについての結論を下してしまっています”(ラム・ダス+ラマ・ファウンデーション『ビー・ヒア・ナウ 心の扉を開く本』吉福伸逸+上野圭一+プラブッダ訳 平河出版社 p.105,106)
・・・・・・・・・
1 出来事が生起するのは、”いま/ここ”である。
1-1 ”いま/ここ”に生起する出来事をとらえることができるのは、純粋思考である。
1-2 純粋思考なしに、”いま/ここ”に起こっている出来事の真実を、見極めることはできない。
1-2-1 純粋思考がないところには、ルシファー幻想の迷宮がある。先入観や偏見、そして妄想と迷信である。
2 出来事こそが、リアリティである。実在である。
2-1 あなたの幼いころの記憶は、またその想起は、実のところ記憶ではない。その記憶の中に登場する人たちは、今はもういない。リアルなのは、あたかも思い出や記憶のように、あなたの魂に浮かび上がっているイメージのような何か。あなたの魂の”いま/ここ”に現われている、それはやはりひとつの出来事なのだ。
2-2 そのような出来事を、高次の自我は生み出す。
3 高次の自我は神的だが、神そのものではない。
3-1 だれもが、成長の在り様が様々な、自らの高次の自我を持つが故に、人間の誰もが神的であり、ひとつの霊/精神なのである。
3-2 低次の自我の思い通りにはけっしてならない高次の自我が、低次の自我としての人間の思いもよらない出来事を・・・低次の自我としての人間のあらゆる予断と憶測、そして期待を裏切り、超越した出来事が起こる。よくもわるくも。
3-3 そのようなことが起こることを、低次の自我は予測できないが、高次の自我は、それが起こることを知っているのである。高次の自我がそれを起こすのだから。出来事とはそのようなものである。
3-4 つまり、それはまさしくカルマなのである。カルマは過去から、そして未来から来る。幼い子どもの中に成長した人間が見えたり、老人の中に幼児が見えたりするのは、そのためである。それは、幻視(ヴィジョン)だが、出来事である。まさに、”いま/ここ”で、そのことが起こっているのである。
4 低次の自我/イメージ体が消えると、そこに(”いま/ここ”に)出来事が生起する。出来事は、あたかも天啓(てんけい)のように現出し、人間の高次の自我が、ことのすべてを感受する。
4-1 魂の内にイメージ体が居座っている間、人間はルシファー幻想の迷宮の中で、情念と情欲の嵐に翻弄され続ける。
4-2 ルシファー幻想の迷宮は、低次の自我の鏡像に他ならない。ウィリアム・ウィルソン/ドッペルゲンガーに低次の自我が勝つ術はない。一人相撲(ひとりずもう)なのだ。
5 出来事において、高次の自我が展開している。そこで(”いま/ここ”で)カルマが織られている。
5-1 出来事における個々の舞台装置や小道具の類は、低次の自我/アーリマン/ルシファー由来であると見なすことができる。
5-2 つまり、アーリマンとルシファーは共働し、いわば人間の低次の自我に・・・彼らはいわば自己犠牲を成して、高次の自我がカルマを発動させるための、出来事を生起させるための舞台を準備し続けているわけだ。
5-3 アーリマン/ルシファーは過去から働き、高次の自我は未来から働きかける。過去と未来とがぶつかるところ、そこは生と死の境域である。その生と死の境域で、出来事が生起する。
5-4 もし誰かが、自らの死にまつわる諸々を不安がり、恐れているとしたら、その人は、死はすでに起こっていること、自分のそれまでの生活、その積み重ね自体が、あなたの恐れているらしき死というものの正体だということにまだ気づいていないだけだ。あなたはもう死んでいるのだ。何も恐れることなどない。
5-4-1 アーリマンとルシファーが、あなたの代わりに、あなたのために、もういっぱい死をプレゼントしてくれた。
6 いずれにしても、日々この地上の暮らしを営み/生活し、人間関係というものをどうにかこうにか”やりすごす”必要から、私たちは、文脈イメージに助けを求める。
6-1 文脈イメージには、多かれ少なかれ、多少の効能があり、あるいは、まさしく見かけだおしで、あったはずの効果もまったくの見せかけにすぎないことが、・・・しかも、一時的に解決したと思われても、変な薬の副作用のように、問題がぶり返したり、予期せぬ新たな問題が持ち上がってきたりするものである。
6-1-1 文脈イメージは一種のストーリーの性格を有し、ある種アルゴリズム的なところもある。そして、種々の感情や情念が必ず付随している。感情/情念発動のための装置のようなものである。
6-1-2 文脈イメージを介した感情/情念の発動は、ほとんど自動的/オートマティックである。あなたは、その自動性に対して、可能な限り意識的/自覚的でなければならない。さもなければ、文脈イメージという本来的には外的なものが、あなたを支配することになる。