”牧師や神父であることって、ものすごくきつくて不自然に見えるじゃないですか。演劇やってたんで、ステレオタイプからいかに逃れるかという闘いがあるんですよ。牧師にもそういう違和感がずっとあった。
でも、晴佐久神父は違った。みんなに「ハルレ」って呼ばれていて、神父然としてなくて、すごく自然体なんです。なんの衒いもなくて、日常の言葉でキリストのことや聖書のことを語るので、福音ってこんな自然に語っていいんだ、自分はそういうものを求めていたんだと気づいたんです。”(最相葉月『証し 日本のキリスト者』角川書店 p.49,50)
「ステレオタイプ」とは、イメージ体/文脈イメージに相当する。
「キリストのことや聖書のこと」は、イメージ体/文脈イメージを突き抜けたところに位置する。
イメージ体/文脈イメージへの囚われから脱け出ることは、容易ではない。だから、世界中のほとんどすべての人間が、イメージ体に囚われたまま、通常の生活を続けている。
「通常の生活」のことを、極めて特徴的な日本的な呼び方で、「世間(せけん)」と呼ぶことができる。「世間体(せけんてい)」や「見栄(みえ)」という文脈での「世間」である。そして「世間」は、やはりイメージ体/文脈イメージの一種である。
あるイメージ体は、他の(別の)イメージ体と、常に対立関係にある。
ある個体の自己疎外の結果/帰結として生み出されるというイメージ体の由来ゆえに、すべてのイメージ体には、他者を排除し疎外する差別的な性格が、色濃く刻み込まれているからである。
人が鉱物界に誕生し、自らの物質体を獲得する。この経緯から、人はこの地上の世界において、最高度の個体性を獲得することになるのである。
つまり、自らの内と外とが、はっきりと分かたれる。
この地上の世界を、個体的存在として生きるためには、そうならざるを得ないという鉱物界の要請/強制はある。
だから、外側の世界は、ある意味、生きる上での大きな障害である。同時に、外側の世界の恩恵を受けずには、人は、鉱物界を物質的に生き延びることはできない。
しかしここで、忘れてはならないことがある。
それは、外側の世界として見えているものの正体が、実は、私が自らの魂の内に、自ら作り上げたイメージ体に他ならないということである。
まるで外なる世界であるかのように映る、自らの内なるイメージ体と、どのように対峙するのか。
この場合に、いろいろな魂の態度と生きる上での姿勢が、人間に問われてくる。
このいわば究極の問いに、多くの人は気づかない(ふりをしがちである)。言い過ぎを覚悟で言えば、「逃げる」のである。
逃げを打って、人がすがるのが、やはりイメージ体なのである。
この究極の存在の問いかけに応えるのを回避するために、人がすがることができるものは、イメージ体しかない。だが、イメージ体を介して、この問いから逃げることなど、できはしないということも、・・・。
・・・そして必ず、何らかの出来事が起こる。あたかもそのことが、預言されていたかのように。
イメージ体同士の対立は、イメージ体の次元を超えた何ものか/something によってしか、解消することはない。
出来事は、そのような何ものか/something が、出現/顕現する場所/舞台に他ならない。
イメージ体同士が、相互に対立するのと同様に、一つのイメージ体を構成している複数の(無数の)文脈イメージ同士もまた、必ずしも整合性を持っておらず、ほとんどの場合、無関係であったり、対立し合ったりしているのが現実である。
つまり、イメージ体というものは、有機的な組織体ではなく、内に矛盾を抱えたカオスのような体(たい)である。
思考/イメージと感情/情念が絡みつき、そしてとぐろを巻き、全く見通しのきかない状態になった幻想の世界である。
イメージ体内部のそのような矛盾が、さまざまな不都合を引き起こすことになる。
もともと反感に根差すそれぞれの文脈イメージは、相互に対立し合うことによって、反感の度合いを増幅させる。魂の内に、容易には解消しがたいさまざまな葛藤が生まれ、思考が混乱したり、停滞したりするようになってくる。
「私にはできない。乗り越えられない。不運だ。・・・誰か助けてほしい。誰に頼ればいいだろう。・・・」
他者に依存したい気持ちが起こってくるかもしれないが、他者の有するイメージ体が、私のイメージ体の中の混乱を解決することはできない。
誰かカリスマ的な人物に惹かれるかもしれないが、それはその人物が担う何らかのイメージ体/文脈イメージが、自分の魂の救済の役に立つように錯覚するからである。
いずれにしても、自らの魂の内のイメージ体のカオス的状況に直面して、立ちすくんでしまった時に、人はそこから逃れようとして、多くの場合、何かカリスマ的な雰囲気があって、一種超越的な輝きを放つかに見える他の誰かのイメージ体に助けを求めがちである。
ほとんどすべての迷信の類は、人間のこのような心性(しんせい)に端を発している。
このすべてを、ルシファー幻想と呼ぶことができる。
人は自らの高次の自我から目を背け、ルシファーに目を向ける。
そのときルシファーは、カリスマ的に光り輝き、無敵に見える。この世ならぬ美しさと圧倒的な力強さに満ちて。
このルシファーの姿は、私の弱さの反映である。
私は、コントロールを失ったのである。ルシファーの軍門に下ったのである。
そして同時に、私はルシファーから威力をもらえると思い込む。それが錯覚であるとは思いもよらない。
ルシファー幻想の虜(とりこ)になった人が、他者を支配するために行使するのが、アストラル投射である。念を送るのである。
イメージ体の内部においては、内向きのアストラル投射が為され、私は自らの魂に負担を強いる。
強い反感に拠り所を持ったいくつもの文脈イメージによって、私の内と外とが、共に傷つけられる。
アストラル体内部の不都合/事故の影響は、エーテル体に及び、やがては物質体の不調を生じさせる。
いずれにしても、イメージ体の次元を超えた何ものか/something が現れないことには、事態は改善の方向へ向かわない。
しかし、それは意図的に成され得ない。そのような意図自体が、イメージ体の枠の中にあるからである。一つの文脈イメージなのである。
・・・出来事の中では、イメージ体に還元されない他者の存在が明らかになる。
「それ/Es」であったはずものが、「あなた/Du」へと変容する。