歴史/出来事とカルマ、そしてアカシャ年代記をめぐる覚書 | 大分アントロポゾフィー研究会

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歴史は出来事そのものだが、そもそも出来事というものを記述することこそがむずかしい。

たしかに、人間の低次の自我がそれを記述しなくても、歴史/出来事は、アカシャ年代記に書き記されていく。

だから、歴史/出来事の記述について、人間がそれほど気に病むこともない。

 

歴史/出来事というものの、地上の世界における不思議な記述/テキストの典型例は、聖書である。

聖書は、まさに純粋思考の言語によって書かれているのである。

高次の自我の言語は、純粋思考の言語である。そして、アカシャ年代記の記述者は、他ならぬ高次の自我である。

 

出来事において、高次の自我が自らを(カルマを)展開し、カルマを織り結ぶ。

それは過去の繰り返しではなく、未来の創造である。新しきものが生み出されるのである。古きものたち(アーリマン/ルシファー)を適宜利用しながら、新しきものが生み出され、歴史は更新される。

 

実際に何らかの出来事が起こったかどうか、またどのように起こったかは、低次の自我にはわからない。高次の自我のみが、それを知るのである。

何も本当のことを知らない低次の自我は、だから、その出来事について記述する資格を持たない。そもそも純粋思考をすることのない低次の自我は、古きものたち(アーリマン/ルシファー)と戯れるしかないのである。

 

さて、「”いま/ここ”において、出来事が生起する」という言い方をすると、”いま/ここ”以外には、リアルはない、あとはすべて幻だ、という感じと、”いま/ここ”という瞬間が過去から未来へぽんぽんぽんというふうに続いていくというイメージが浮かんできて、これまたひとつの文脈イメージが生まれる。

しかし実際は、そうではなく、過去というものは低次の自我として人間の魂の内に、まさしく豊かに/豊穣に(ほうじょうに)蓄積されており、私たちはこのように豊かな過去という時間の蓄えを、日々活用しながら生きているのである。

 

さて、このとき、一見過去から未来へと流れてゆくかに見える地上的な時間の直中(ただなか)に、まったくもって思いもかけず、何か異質なものが突入/侵入してくるのである。

そのようにして、出来事/歴史が生起する。

過去と未来が出会う”いま/ここ”において、これまではあり得なかった、まったく新しいことが生まれるのである。

 

このような特別な時間、”いま/ここ”を、”聖別された時間”と呼ぶことができる。シュテファン・ツヴァイクにならって、”星の時間/Sternstunde”と呼んでも、あながち不適切ではあるまい。

”いま/ここ”という”聖別された時間”、そう”人類の星の時間”においては、地上のすべての物音/騒音が静まり、一種の霊気が立ち込める。どこからともなく比類のない柔らかいエーテル光が差してくる・・・あなたは目覚めているのか夢を見ているのかわからない。純粋思考に貫かれた意識は鮮明かつ澄明である。

 

高次の自我が顕現しているのだ。

それは、単に思考のようではなく、意志のようでもある。それは、単に霊我/マナスのみにあらず、生命霊/ブッディ、霊人/アートマンでもある。それは、カルマでもある。

歴史/出来事の場で、高次の自我/カルマが展開し、更新されてゆく。それまでにはなかった何か新しいものが生まれるのである。