通常の思考は、アーリマンに由来し、通常の感情は、ルシファーに由来する。
人間は、自らの魂の内で、思考と感情とを交錯させ、意志を生み出す。
意志は、自我に由来する。極言すれば、意志こそが自我に他ならないのである。
しかし、アーリマン由来の思考とルシファー由来の感情とから生み出されるその意志は、低次の自我の意志である。
紛い物(まがいもの)の意志である。
いずれにしても、人間がこの地上の世界に生きる以上、人はアーリマン由来の思考とルシファー由来の感情に頼ることになる。
思考は、文脈イメージの骨組みを構築する。感情は、その構築作業に随伴し、文脈イメージに見かけ上の生命感と色彩を付与する。
人間は、自らの思考と感情の力によって、いわば魔術的に、第二の宇宙/人工的な宇宙を生み出す。
しかし、人間の生み出すそのような第二の宇宙/人工的な宇宙は、過去のコピー/繰り返しである。
一方、霊的存在は、常に唯一であり、一回限りなのである。
アーリマン由来の思考は、デジタルに還元される。コンピューターを介した計算と同質である。
人は、もう何回も経験してきた、自分だけではなく、当の昔にこの地球上のありとあらゆる場所でマジョリティであった多くの人々がすでに繰り返し味わってきた感情を、魂の内に呼び起こすために、文脈イメージを構築する。
このような人間の営みには、うんざりさせるような既視感が伴う。
アーリマンとルシファーに由来するこのような文脈イメージと対極にあるのが、唯一性/一回性という特徴を持つ霊的存在であり、私たちがアーリマン/ルシファー/文脈イメージ/イメージ体に囚われている限り、それは姿を現わさない。
アーリマン由来の思考とルシファー幻想が結合すると、人間の魂は唯物論/唯物主義に囚われる。唯物論/唯物主義のイメージ体からエーテル界を見やることは不可能である。