キリストから来るものとは何か | 大分アントロポゾフィー研究会

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私は、イメージ体/文脈イメージに依存する。執着する。

私の低次の自我/第二の自我、ドッペルゲンガーである。

 

私が何ものかに依存しているとしたら、執着しているとしたら、それは必ず、私の内なる他者であるイメージ体に他ならない。

 

外なる他者に私が遭遇する時、私は私の内なる他者であるイメージ体を対峙/対抗させる。

私は私の低次の自我/第二の自我であるイメージ体を守ろうと必死になる。

この攻防において、私のイメージ体に勝ち目はない。

外なる他者の正体が分からぬこの戦いに、内なる他者は必ず負ける。一人相撲なのである。

 

私が、自らのイメージ体/文脈イメージへの依存と執着から脱した時に初めて、外なる他者の正体が明らかになる。

すると、外なる他者と内なる他者の戦いは意味を失い、平和が私の魂を支配する。

 

・・・・・・・・・

 

何らかの対象に依存・執着するか、それに囚われのない態度で対峙できるか、という尺度は役に立つ。第二の自己認識のために。

依存・執着していれば、その対象はイメージ体/文脈イメージであり、囚われなく対峙できていれば、それはイメージ体/文脈イメージではない。

 

イメージ体/文脈イメージが、ルシファー由来なのに対して、囚われなく対峙される”それ”は、キリストから来る。

 

イメージ体/文脈イメージへの依存・執着は、過度の攻撃性と防衛的な態度を生む。焦燥感が常にある。このような魂の状態こそが、ほとんどすべての病気の原因である。

 

”「どくろ」と呼ばれているところに来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」・・・”(『ルカの福音書』 第23章)

 

キリストから、キリスト衝動 Christus-Impuls が来る。これが聖霊に他ならない。

聖霊は、囚われのない態度を生み出す。作り出す。聖霊は、いわば人間を不死にするのである。肉において死んでも、霊/精神においては不滅なのだ。これが、”復活”という事柄の意味するところである。

ここに記した言葉は、イメージ体/文脈イメージではない。

キリストから来る聖霊である。

 

”その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」”(『ヨハネの福音書』 第20章)

 

鉱物界から肉体を通して、別のものが上って来る。

おそらく、・・・これこそが「それ/Es」の正体である。これもまた、イメージ体/文脈イメージではない。

聖霊とは異質で、その対極にあるものだ。・・・死である。

死/アーリマンの力は、私たちがこの地上生を生きる間、いつも絶え間なく上って来ている。

 

人間の体(たい)には、高次の霊的ヒエラルキア存在たちが働きかけているので、寿命が来るまで、私たちは何とかもちこたえる。

しかし、死/アーリマンの影響は、肉体を通して魂にまで及ぶ。

 

肉体における聖霊と命(いのち)の証(あかし)は、血である。

エーテル体が肉体に生命を付与している。賦活する。その土台の上に、人は魂/アストラル体を得る。

キリスト・イエスは、ゴルゴタの丘(骸骨の丘・「どくろ」)で処刑される。骸骨は死の象徴となる。

 

”・・・わたしには、あなたがたに話すことがまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐える力がありません。しかし、その方、すなわち真理の御霊(みたま)が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。御霊はわたしの栄光を現わします。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。父が持っておられるものはみな、わたしのものです。ですからわたしは、御霊がわたしのものを受けて、あなたがたに知らせると言ったのです。”(『ヨハネの福音書』 第16章)

 

「わたし(キリスト・イエス)の栄光」とは、キリスト・イエスがゴルゴタの秘蹟を経て、聖別され、復活したことを意味する。

 

聖霊によって身籠った聖処女マリアが、イエスを産む。神の子が人の子/人間に成ったのである。

もちろん、ただの人間ではない。その体(たい)と魂には、神/キリストが宿っている。しかし、キリスト・イエスは、一人の人間なのだ。この二重性に最大限の注意を払わなければならない。ただの人であり、神でもある。

 

なぜ神が人と成らなければならなかったのか。

それは、神が人間を生み出したからである。

旧約聖書が描き出しているように、神は自らに似せたものとして人間を造り出した。似てはいるが、もちろん神そのものではない。

 

神は大地(鉱物界)とそこに生きる生き物たち(動植物)を人間に与えた。もちろん、何の知識も持たない赤子のような人間は、大地と生き物たちとを統べる術を知らない。

人間は、ルシファーからイメージ体/文脈イメージを作る術(善悪の知識)を得た。そして、イメージ体を媒介にして、外界に対峙することができるようになった。内なる世界と外なる世界とが分かたれた。人間は疑うべくもなく個的存在となったのである。

数知れず過ちを犯しながら生きる地上の生き物となったのである。~ ”善悪の知識の木”

 

過ちの数だけ人間は病んでゆく。ルシファーに端を発し、人間の魂に巣くってそれを支配するまでに至ったイメージ体に、人間が依存し執着の度を高めれば高めるほど、アストラル体は不浄の度合いを増す。アストラル体の強靭さが奪われてゆく。文字通り「病弱(脆弱)になる」のである。そのようにして人は心身を病んでいく。

 

そして人間は、命の木の実を食べることはできなかった。死すべき存在と定められたのである。

死すべき定めは、一人の人間としてのキリスト・イエスとて変わるところはない。

つまり、ゴルゴタの秘蹟を通して、神であるキリストが、人間の死という出来事を体験するのである。

 

さて、このように人間は、鉱物界から体(たい)の方向へと向かってアーリマンによって、そして魂に居座るイメージ体からアストラル体、エーテル体さらに肉体へと向かってルシファーによって、死の淵に立たされているのである。

 

アーリマン由来の死の力は、魂においては、反感として現れる。反感はその性質上、アニマ/魂から活力/生命を奪い取る。反感は死/アーリマンに由来するのである。アーリマンはアンチ・ロゴスである。ロゴスの陰(かげ)、すなわち闇(やみ)である。ロゴスは霊だが、アーリマンは非霊(ひれい)の霊として鉱物界に君臨する。

 

”初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面(おもて)にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。

「光あれ。」

こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。・・・”(「創世記」 第1章)

 

カオスとしての地(鉱物界)に、神は光/ロゴスをもたらした。

これによって、「深淵の面(おもて)」にあった闇のアンチ・ロゴスとしての性格が、明らかなものとなった。「神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。」のである。「昼」とは、純粋思考へと高まる思考、一方の「夜」は、イメージ体/文脈イメージの骨格を形成する死んだ思考、影のような思考であり、まさにアーリマン的な思考に他ならない。

 

このアーリマン的な思考を経由して(媒介にして)、アーリマンの死の力が、人間の魂に流れ込んでくる。

アニマ/魂の基本傾向は受動性であり、このアーリマンの死の力を、いわば無防備に受け入れてしまう。

人の魂の中で、このアンチ・ロゴスの否定の力は、・・・ロゴスが現れず、ロゴスの関与と介入を得ることができなければ、・・・

 

「神は言われた。『光あれ。』」

「光」とはロゴスである。ロゴスとは、本来の思考、つまり生きた思考/生命的思考/エーテルの思考である。

 

”初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。”(『ヨハネの福音書』 第1章)

 

「ヨハネ福音書」のこの冒頭部分は、「創世記」の冒頭部分と響き合っている。

つまり、「ことば」とはロゴスであり、ロゴスとは「光」である。

「この方」とはキリストであり、キリストは「初めに神とともにおられた」。すべてのものは、キリストによって造られた。

キリストに「いのちがあった」。生命/エーテル体は、キリストに由来する。

「このいのちは人の光であった。」つまり、「いのち」はロゴスである。

「光」とはロゴスである。ロゴスとは、本来の思考、つまり生きた思考/生命的思考/エーテルの思考である。

そして、この思考はキリスト的思考であり、純粋思考に他ならない。

 
人間の魂において、キリスト的思考/純粋思考の対極にアーリマン的思考/機械的思考がある。生きた思考に対して、死の思考である。「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」しかし、光/キリストがやって来なければ、闇/アーリマンが支配するのである。