他者に遭遇し、対峙する時に、程度の多少はあれ、イメージ体は危機的状況に陥る。
何らかの対応を迫られるのである。
これは人間の逃れられない宿命である。
イメージ体というものが、人間の魂の内に生み出されるようになったそもそもの初めから、怪しい気配はすでに漂っていたのである。
”主なる神は女に向かって言われた。
「何ということをしたのか。」
女は答えた。
「蛇がだましたので、食べてしまいました。」
主なる神は、蛇に向かって言われた。
「このようなことをしたお前は あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で 呪われるものとなった。お前は、生涯這いまわり、塵を食らう。お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き お前は彼のかかとを砕く。」
神は女に向かって言われた。
「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。お前は、苦しんで子を産む。お前は男を求め 彼はお前を支配する。」
神はアダムに向かって言われた。
「お前は女の声に従い 取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪わるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。お前に対して 土は茨とあざみを生えいでさせる 野の草を食べようとするお前に。お前は顔に汗を流してパンを得る 土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。」”(創世記 第3章)
蛇/ルシファーは「呪われるもの」となった。つまり、霊/精神の世界から排斥/疎外された。
そして、ルシファーに誘惑された女/アニマ/魂は、敵意/情念に翻弄されるようになり、情欲/性欲が私たちの魂を「支配」するようになった。善悪の知識の木の実の対価として、人間が得たものこそ、イメージ体/文脈イメージというルシファーの幻想空間だったのである。
また、神はアダムに言う。
「お前(アダム)ゆえに、土は呪われるものとなった」・・・「土」もまた「呪われるもの」となった。
大地もまた、霊/精神の世界から排斥/疎外され、そこに育つ植物たちも、そのままの状態ではもはや人の食物とはならない。
大地に由来する人間の肉体も、霊/精神の世界から排斥/疎外された。死後の肉体が帰る先は再び、呪われた大地/土である。
驚くべきことに、神自らが、アダム/人に対して、「お前は塵にすぎない」と明言しているのである。
いずれにしても、人間は本来の故郷であるエデンの園/神々(霊的ヒエラルキア)の世界から追い出された。
彼/アダムは、自らエバ(命)と名付けた女と共に、エデンの園を後にした。
彼には、ルシファー由来のイメージ体(仮象の世界/アストラル界)とアーリマン由来の死(鉱物界)だけが与えられた。
”主なる神は言われた。
「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある。」
主なる神は、彼をエデンの園から追い出し、彼に自分がそこから取られた土を耕させることにされた。こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守らせるために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた。”(創世記 第3章)
アダムは一人でエデンの園から追放されたのではない。エバが共にいたのである。
だが、アダムはエバが本当のところ何者であるか知らない。そして、アダム自身が誰なのかも。
アダムは、神には「お前は塵にすぎない(ただの物質である)」と言われているのである。
驚くべき虚無主義/ニヒリズムと言うほかない。
人間は、そもそもの初めから、神から「今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある。」と懼れられる(おそれられる)存在であった。
すでにこのとき人間は、善悪の知識の木の実を食べることで、幸か不幸かアストラル界の秘密を手にしており、魂を自らのものとしていた。魂において、個的な存在となっていた。”自由の霊” へと成長する鍵を手に入れたのである。
しかし、命の木の実は食べることはできなかった。エーテル界の秘密を知るまでには至らなかったのである。
彼は永遠の命を得ることは叶わなかったが、有限の命は許され、神によって与えられた体(たい)を、霊的ヒエラルキア存在たちの助けを得ながら、生長/成長させて、寿命の尽きるまで、この地上生を生き抜く存在となった。神は「アダムを追放し、命の木に至る道を守らせるために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた」のである。
しかし、アダムは一人ではない。エバがそばにいる。
”主なる神は言われた。
「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」
・・・人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助ける者は見つけることができなかった。
主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。”(創世記 第2章)
すでにアダムが持ち得るようになっていたあらゆるイメージ体を以てしても、アダムが満たされることはなかった。「自分に合う助ける者」を見つけることはできなかった。
「人が独りでいるのは良くない」と考える神は、アダムを深い眠りに落とし(エーテル体とアストラル体を抜き出して)、彼の魂の一部をもとに、魂というアダムの持つものと同質のものを持つ女/エバを造り上げる。
だからエバは、アダムの「自分に合う助ける者」となることができるのである。
”・・・主なる神が彼女(エバ)を人のところへ連れて来られると、人(アダム)は言った。
「ついに、これこそ わたしの骨の骨 わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」
こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。”(創世記 第2章)
「骨と肉」は、イメージ体を超えている。「骨と肉」の出来事は、仮象の世界の事柄ではない。
性的・肉体的なオーガズムは、通常の物質的仮象性を超え出る体験である。だから、この体験を契機に、人は仮象の世界を外化し、相対化する可能性を得る。ただし、肉体にまで深く浸透しているルシファーの力を軽視することはできない。
「骨と肉」の出来事は、受精であり受肉である。そして、肉体の生長と死である。肉体の生長のプロセスにおいては、エーテル体とアストラル体の関与があり、同時に霊的ヒエラルキア存在たちの協力を忘れるわけにはいかない。
そのように、「骨と肉」の出来事は、すぐれて根源的なのである。
いずれにしても、人は危機と試練の時を、「自分に合う助ける者」と共に、生きるのが望ましい。「人が独りでいるのは良くない」のである。(また、「人生の楽園」などという言葉遣いは、お年寄りにも相応しくない。もちろん、すべての年代にわたって当てはまらない。)
人間は、神々の世界から旅立って、この地上の世界に誕生し、霊界/精神界とは異質のこの世界を生きる以上、この地上生の一刻一刻絶え間なく、神々の世界からの疎外感に苛まれるのである。この疎外感が、表立って鮮明に現れるか、魂の奥深く何か疼きのように感じられるかはあまり問題ではない。
この根源的な疎外感から逃れられない私たちの生は、いかなるイメージ体によっても覆い隠すべくもなく、危機であり試練であり続けるのである。
しかし危機と試練は、実のところ、大きな恵み/恩恵/恩寵の兆しである。そこから逃げ出しさえしなければ。
「知覚の扉澄みたれば、人の眼に
ものみなすべて永遠の実相を顕わさん
――ウィリアム・ブレイク」
実体変化