私たちの体(たい)に備わる感覚器官を媒介にして、種々の感覚的イメージを得て、それらのイメージから思考が文脈イメージ/イメージ体を構築しているからと言って、そのようなイメージ体構築過程を、脳科学や神経学の説明枠組み(文脈イメージの一種)に当てはめようとするのは避けた方がよい。
脳科学や神経学もその一翼を成している自然科学の思考法ならびにそこから生み出される自然科学的な文脈イメージは、どこまで行っても唯物主義というアーリマン的な虚構/フィクションであり、そこにルシファー衝動が注ぎ込まれると、とんでもない幻想と情念の悪魔的世界が出現する。そして、科学者たちはそのありようを「科学的」であるとうそぶくのである。
科学的言説に特徴的なこの構造を見抜かなければならない。
さて、自然科学がはまり込んで身動きが取れない状態に陥ってしまった唯物主義/唯物論の文脈イメージから、いかにして脱け出ることができるのか。
また、仮にそこから脱出できたとして、そのように脱け出た先には、どのような世界が待ち受けているのか。
自然科学の土台めいた場所には、アーリマンがいる。アーリマンが働きかけて、私たちの思考が成り立っている。機械的な硬直した融通の利かない思考が。
私たちは、このアーリマン性を克服しなければならない(思考に柔らかさとしなやかさを)。
思考人間の代表とも言える科学者たちも含めて、私たち人間というものは、感情と情念の生き物である。
感情と情念の中にルシファー衝動が働いている。
この衝動はいずれにしても強大であり、歯止めがなければ留まるところを知らない。
人間の魂において、その歯止めの役割を果たせるのは、思考である。
私たちは、このルシファー性を克服しなければならない(律しなければならない)。
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人間の魂は、時々刻々、日々、変化し続ける。
この変化/変容のプロセスを、長い目で見たときには、魂の成長と呼ぶことができる。
もちろん、前進もあれば後退もある。成長の過程において、そのことは付き物だし、そういったことがなければ、そもそも成長などというものはあり得ない。(cf.プロメテウス)
さて、そのような視点で見たときに、魂の成長の様子に、幼児的な魂と成熟した魂の両極があって、この幼さと成熟の間に大きな振幅と多種多様なヴァリエーション/グラデーションが存在することが分かる。
いい大人の魂が極めて幼稚な状態にとどまっていたり、まだ若い人間が成熟した魂の持ち主だったりする。
そして、自分の魂の状態/成長レベルを、当人はなかなか客観視することができない。それができるのは、すでに第一の自己認識を経て、第二の自己認識へと至った人だけである。