思考の営みにおける困難さは、それが容易には純粋思考の状態に入っていかないところにある。
この困難さは、思考が通常、イメージと強く結びついているところから来る。
私たちは、形のないものについて思考することが、とても苦手なのだ。
そして、思考は通常、イメージ体/文脈イメージを生み出すところで止まってしまう。
イメージ体/文脈イメージを生み出す過程で思考は、ルシファー衝動に由来する感情と情念によって、推進力を獲得する。
しかし、一旦(いったん)何らかのイメージ体/文脈イメージが誕生すると、感情と情念は静まり、思考は推進力を失う。
そして、また間もなく私の周囲で、もしかすると私の体内で何事かが起こって、私はそれを看取し、私の感情が動く。これがきっかけとなって、私の思考がまた動き始める。
そうして思考は、それまでのイメージ体/文脈イメージに変更を加える。変更を加えられたイメージ体は、旧来のものと似ている場合もあれば、それほど似ていない場合もあり得る。場合によっては、全く異なったものに見えることもある。
だからイメージ体が変容することによって、同一人物の性格が全く変わってしまったように思われることもある。
このようなイメージ体の変化/変容/更新は、常時起こっている。
そのように不断に変化し続けるイメージ体の、いわば内部で私たちは、いわば日々暮らしているわけである。
それはいわば一種の内部空間のようなものであり、この内部はアーリマン原理、つまり三次元の時空がその枠組み/骨組みとなっている。鉱物界の原理が、私たちの魂までも浸食している。私たちの魂は、言ってみれば、アーリマン的になっている。
私たちの魂において、私たちの思考が日夜相手にしているもの(「他者」と呼んでもよい)の正体は、アーリマン/ルシファー的な(ルシファーに由来し、アーリマンによって形を与えられた)種々のイメージたちである。
”主なる神は言われた。
「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」
主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助ける者は見つけることができなかった。”(創世記 第2章)
「わたし」は、「それ」たちを得たが、まだ「あなた」を見出してはいないのである。