イメージ体/文脈イメージは時々刻々その姿を変えている。
イメージ体/文脈イメージがそのように常に変容しているということに、通常、人はほとんど気づいていない。
自ら作り上げるイメージ体と同化しているので、自覚できないのである。
しかし、人間は、自らの人生行路におけるいずれかの時点で、一度、自分の作ったイメージ体の外に(!)出て、それを相対化して眺めてみる必要がある。
そのためには、いずれにしても、イメージ体というものが、様々な感覚的イメージ、言語的イメージ、そして文脈イメージの集合体であり、思考の力によって実に巧妙に組織化されてはいるものの、その性質上、仮象/フィクションに他ならない、ということに気づかなければならない。
他の動物にはない、言語感覚、思考感覚、自我感覚が人間には備わっている。
この3つの感覚があって初めて、人間はイメージ体/文脈イメージを自らの魂の内に作り出せるのである。
他の動物は、人間のようにイメージ体/文脈イメージを持つことはない。彼らが持つのは、まさしく神的本能の意志である。
動物の持つ神的な本能の意志は、人間がこの地上の世界においては、”テオーリア”の瞬間にのみ持ち得る純粋思考に似て、まさに無媒介に発動する。
人間は、本能に盲目的に従うことができない状況へと入って行ったのである。
このような経緯を、「進化」という言葉で呼ぶことは・・・
いずれにしても、人間は本能の代わりになるものとして、イメージ体を利用するようになった。
イメージ体の効果/効能は、目覚ましい。文字通り、それは魔術的である。
それによって人は、病気にもなれば、罪も犯す。一時的な快楽に浸り、そして日々の暮らしの糧を得る。
それによって人は、誰かを好きになったり、嫌いになったりする。
私たちの生活の全般にわたって、イメージ体が関与している。
つまり、私たちは人類史のかなり昔から、イメージ体の助けを借りて生きてきたのである。
イメージ体は、私たちの第2の自我/低次の自我となり、私たちはまるでイメージの牢獄の中に住んでいるかのようだ。
イメージ体がそれ独自の意志を持ち、自立/独立して、あたかもその宿主のコントロールとそしてその命までも奪っていくかのように。しかも、宿主である私たちは、無自覚である。自分が遭遇する幸不幸が、自らの第2の自我/低次の自我に由来することに気づかないのである。
”・・・だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。・・・だから、あなたがたも用心していなさい。なぜなら、人の子は、思いがけない時に来るのですから。・・・だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。”(マタイの福音書 第24、25章)
イメージの迷宮/牢獄から脱け出る必要がある。
私たちは、夢の中にいる。眠り込んでいる私たちの代わりに、私たちのイメージ体が幅を利かせているのである。
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私たちが、イメージ体/文脈イメージを外化/観察することができれば、その仮象/フィクションとしての本性が明らかになる。
同時に、私たちがいかにイメージ体というものに依存/執着してきたかが痛感される。
この体験/経験こそが、第2の自己認識と呼ぶべき出来事なのだ。
「我思う、故に、我在り」という根源的な自己認識を、第1の自己認識と呼ぶことができる。これは、純粋思考である。
イメージ体から脱け出る第2の自己認識も、もはやイメージの助けを求めないという意味において、やはり純粋思考に他ならない。
さて、この地上の世界においては、純粋思考のみを持続させるという一種のラディカリズムを貫き続けることはできない相談である。
しかし、一度この第2の自己認識に到達するならば、もはやいかなるイメージ体/文脈イメージにも拘泥(こうでい)しないでいることができる。そのような魂の態度を獲得することができるはずなのである。