人はパンだけで生きるものではない(12) | 大分アントロポゾフィー研究会

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あらゆるイメージ体/文脈イメージを媒介にしたいわゆる”解釈”を、超越する出来事が起こる。そこでは、あらゆる”解釈”が無に帰す。無に帰すと同時に、・・・

 

”一切の無常なるものは
ただ影像たるに過ぎず。

かつて及ばざりし所のもの、
こゝには既に行はれたり。
名状すべからざる所のもの、
こゝには既に遂げられたり。
永遠に女性なるもの、

我等を引きて往かしむ。”(神秘の合唱 ゲーテ『ファウスト』より 森鴎外訳)

 

ロゴスによるアニマの受胎・・・人間の自我の統合というべき状態が生み出される。

「わたし」と「あなた」という根源語における二元性が、この状態においては、・・・止揚(しよう)される。

「わたし」は「あなた」の中に「わたし」を見出すのである。

これが、”自己犠牲(じこぎせい)”の原形である。

人は”自己犠牲”によって初めて、イメージ体/文脈イメージの原理的な相対性の迷宮から抜け出すことができる。

 

・・・キリストは自己犠牲(ゴルゴタの秘蹟)を通して、人間の魂の内に、高次の自我の萌芽を埋め込んだ・・・

それ以来、人間はことあるごとに、ちょうどデカルトが、”我思う、故に、我在り”と直観したのと同質の啓示(けいじ illumination)を体験してきた。

そして、そのような啓示(illumination)は、おそらく最終的な形態としては、「ヨハネの黙示録」のようなものになるはずである。

通常の魂は、そのような啓示の強烈さに耐えることはできない。

 

(以上のような経緯のどこに、芸術は位置づけられるのだろうか)

 

例えば、セックスを媒介にしたオーガズムは、超越的な体験の一種だろう。しかし、そのようなオーガズムの状態もやはり長時間持続はしない。「イゾルデの愛の死」(R.ヴァーグナー『トリスタンとイゾルデ』)の音楽が7分程度で終わるのと同様に。

オーガズムの状態において、人は、生命の一時的な絶頂にあると同時に、一種、死の瀬戸際に行く、と言うことができる。

 

あらゆるイメージ体/文脈イメージが消失すると、人間である他者は、啓示(illumination)の光に照らされて、「あなた」として姿を現す。そこに損得や利害のようなものは入り込む余地はない。

 

一方、イメージ体/文脈イメージを通して現れてくるものは、カリスマ臭を放つ他者である。カリスマは、イメージ体/文脈イメージが消失した時に出現する他者=「あなた」とは全く異なった光を帯びている。

親は子どもにとって、極めて簡単にカリスマ的な存在になり得る。親が自分のカリスマ性を背景にして、子どもをコントロールしたり支配したりする危険は常に存在する。

 

カリスマは、過去に由来する。

「あなた」がエーテルの光に包まれているの対し、カリスマはサイケデリックなアストラル光に輝いている。

 

魂はいずれにしても受動的なものであり、アニマと呼ぶのが相応しい(ふさわしい)。

男も女もそのようなアニマとしての魂的存在であり、その原像は他ならぬ聖処女マリアである。

男女の別なく、人間が自らの魂を浄化してゆくと、その魂は聖母マリアの魂に近づく。

人がこの地上の世界に誕生して、そこで生き抜いていくために、自らの思考と想像力を駆使して作り上げてきたイメージ体/文脈イメージの拘束から自由になるにつれて、人の魂は浄化されてゆき、一種の霊的な例外的状況が生まれる。

純粋思考が働き始めるのである。

この純粋思考を、ロゴスと呼ぶことは適切である。

 

純粋思考は、自らの傍ら(かたわら)に佇んでいる(たたずんでいる)その人(someone)を、「あなた」であると気づき、「あなた」の中に「わたし」を見出す。そして、霊/精神に目覚めるのである。

このように、聖霊降臨においては、・・・