人はパンだけで生きるものではない(11) | 大分アントロポゾフィー研究会

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人は、自らの魂の空間において、他者と出会う。

人は、自らの魂の中に作り上げたイメージ体を通して、イメージ体としての他者に遭遇(そうぐう)する。

私の自我が他者の自我に直接的に接触するのではなく、イメージ体を媒介にして触れ合うのである。

 

私の自我が他者の自我ではないのと同様に、私の魂の内に在るイメージ体は他者の有するイメージ体とは常に異なる。

魂は、何らかの一つのイメージ体を通して見るものを、それとは別のイメージ体を通して見ることはない。

つまり、私とあなたとは、同じ対象を見ても、別の見方をするのである。

だから、私にとって存在する何かは、あなたには見えない。あなたにとって当然なことが、私にはそうではない。

 

極端な例をとってみれば、そこにいる緑色のカエルが、彼には灰色のヤモリに見えているかもしれない。私には緑色のカエルなのに。何時間か経って、私はそのカエルが実は緑色ではなく、茶色だと気づくかもしれない。その数分後に、しかしそうではなく、茶色い別のカエルが現れていたと知るかもしれない。それから、私は何としたことか、ベッドで目覚め、全部夢だったと気づくことになる、というようなことは日常茶飯事である。

それから、朝食をとっていると、彼から電話がかかり、「今朝、何か見なかったか?」と聞いてくる。私は、話がややこしくなるのを恐れて、「何も見なかったよ。」と答えると、「おれは緑色のカエルを見たんだ。」と彼は熱く語る。私は、「それがどうしたんだ。」と内心半分面倒臭くなってくる。・・・

 

イメージ体/文脈イメージというものは、決して固定的/静的なものではなく、常に変化/変容のプロセスにある。

だから、私の感じ方や物事のとらえ方は時々刻々変化している。しかも、その時その時のイメージ体/文脈イメージが、私の魂の中でしっくりいっているとも限らない。どこか不十分だとか、無理やりだと感じている場合がほとんどだと思う。

もともと人は、この世に生まれた時から疼き続ける根源的な不全感を、なんとか解消するために、イメージの助けを借りて、自らの魂の内にイメージ体/文脈イメージを生み出す。第2の自我/低次の自我である。

そして、人はいつも必ず、第2の自我/低次の自我によって、裏切られ続ける。「こんなはずではなかった。」「思っていたのと違う。」と。

 

子どもは成長の過程で、自分の親由来のイメージ体/文脈イメージの強い影響を受ける。親の助けなしに成長することはまず不可能だから、原理的に親由来のイメージ体/文脈イメージはなくてはならない。

親の顔の表情、身振り、言動、生活態度、要するに親の生き方そのものが、その親のイメージ体/文脈イメージの表れであり、子どもはそれを模倣するのである。子どもが親由来のイメージ体/文脈イメージの支配から逃れることはできない。

 

しかし人間の成長は、そのような親由来のイメージ体/文脈イメージの拘束から脱して、自立することにある。

そのためには、人は親由来のイメージ体/文脈イメージではないものを見聞きする、体験し学習する必要がある。

親以外の他者に、子どもはその成長の過程で、やがて出会うことになる。

このような出会いを、恣意的にコントロールすることはできない。親にもできないし、子ども自身にもできない。

そのような他者との遭遇は、まさしく起こるべくして起こるのである。そして子どもは、そのようにして出会った他者との間に、「私」と「あなた」の関係を結ぶことになる。

人生の歩みの中で、そのような運命的な出会いを経験しない人はいない。誰もが、出会うべくして出会うことになる「あなた」としての他者に必ずめぐり会う。

そもそも自分の親や兄弟・姉妹は、そのような運命的な出会いの相手である。この出会いは言うまでもなく決定的なものだ。そして、自分の家族のメンバーとの関係性を、人は更新し続けなければならない。人生の課題と言ってもよい。

それは、確かに大きなテーマには違いないが、人間がさらに成長するためには、家族以外の他者と出会わなければならない。