人はパンだけで生きるものではない(9) | 大分アントロポゾフィー研究会

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文脈イメージの体的(たいてき)性質について・・・

 

それは、イメージの体(たい)である。

体(たい)においては、個々の構成要素が有機的に結びつき合って、ひとつの個体/全体が生み出されている。

個々の諸々の様々なイメージが、文脈イメージというひとつの全体、ひとつのイメージ体(いめーじたい)を創出するのである。

だからこの場合、人間に備わる12の感覚(cf. ルドルフ・シュタイナー:触覚、生命の感覚、運動の感覚、平衡感覚、嗅覚、味覚、視覚、暖かさの感覚、聴覚、言語感覚、思考の感覚、自我感覚)に由来するイメージを考慮に入れるべきだろう。

 

肉体、エーテル体、アストラル体から成る人間の外的な体(たい)に似たもの、相似(そうじ)するものが、魂において現れる。

これが、文脈イメージ/イメージ体である。

文脈イメージ/イメージ体は、人間の自我がこの地上世界を生きるために、便宜上(べんぎじょう)生み出さざるを得ない第2の自我/低次の自我と呼ぶべきもので、やがて独自の自律性を持つようになり、本来の自我から分離・独立するに至る。

第2の自我/低次の自我としての文脈イメージ/イメージ体は、自らを生み出した人間の魂に住みつき、その魂を宿主(やどぬし)として、その人間の本来の自我のコントロールが及ばない領域を、その魂の内に増殖(ぞうしょく)させる。

そして、第2の自我/低次の自我が、その人間の本来の人格であるかのような様相(ようそう)を呈する(ていする)までになる。

 

いずれにしても、イメージというものの持つ喚起力(かんきりょく)は極めて強力なので、この力に抗う(あらがう)ことはなかなかできない。

イメージは絶え間なく、変容を繰り返し、別のイメージを生み出し続ける。

このようなイメージの創出と変容を成している主体は、人間自身であり、人間は自らの思考と想像力を駆使することによって、まさにこの地上世界を生き抜くためにそれを成しているのである。

なぜならば、イメージなしにこの世界に関与(かんよ)することはできず、また他者と対峙(たいじ)することもできないからである。

つまり、人間は他ならぬイメージというものによって、鉱物界の疑似的な(ぎじてきな)直接性(ちょくせつせい)と具体性(ぐたいせい)とを、はじめて享受(きょうじゅ)することができるものなのだ。

 

ここで、再度確認しておくべきことがある。

それは、人間は一度には二つのものに同時に注意を向けることができない、ということである。

この性質は、”志向性(しこうせい)”と呼ばれている。

既にこれまでの文脈からも明らかだが、第2の自我/低次の自我としての文脈イメージ/イメージ体が成立すると、本来の自我が忘れられる傾向がある。

また、人間が自ら作り上げたものであるとはいえ、何らかの文脈イメージ/イメージ体に対する依存度が高まり過ぎると、その人間の嗜好(しこう)や生活態度が硬直(こうちょく)して、他者をいわれなく排除したり、攻撃したりする傾向が強くなる。

 

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”だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。”(マタイの福音書 第6章)

 

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”それから六日たって、イエスは、ペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた。そして彼らの目の前で、御姿(みすがた)が変わり、御顔(おかお)は太陽のように輝き、御衣(みころも)は光のように白くなった。しかも、モーゼとエリヤが現れてイエスと話し合っているではないか。・・・”(マタイの福音書 第17章)