人はパンだけで生きるものではない(10) | 大分アントロポゾフィー研究会

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人間がこの地上世界を生きる中で、霊界/精神界への憧憬(しょうけい)の念は、魂の中で燻り(くすぶり)続ける。

その望郷(ぼうきょう)の焔(ほのお)は決して消えることはなく、人間の魂の中で、自分の意志の力ではほとんどどうしようもない不全感のようなものが・・・

 

人間はこの地上の世界へと生まれ落ちることによって、生まれる前に享受していた霊的存在としての他の人間たちをも含めた、霊的ヒエラルキア存在たちとの直接的な交流/交感/交歓(コミュニオン)を失ったのである。

しかし、そのようなコミュニオンの記憶は、カルマに刻印されている。

 

受肉し、この地上の世界を生き抜いていかなければならないという抜き差しならない状況にある人間という生き物は、いずれにしてもいわば極限状況(きょくげんじょうきょう)に置かれていることに疑いの余地はない。

綱渡りのような生を生きているのである。

だから誰もが、止むに止まれぬ(やむにやまれぬ)或る衝動につき動かされる。

この衝動のことを誰もがよく知ってはいるが、共通の一つの名前で呼ばれるようにはなっていない。

しかもこの衝動がどれほど強烈で、同時に危険であるのかについても、見て見ぬふりをされがちである。

それほどまでに人間は、この衝動の虜(とりこ)になっているのである。

 

・・・・・・・・・

 

それ(es)、あなた(Du)そして私(Ich)、いずれもこの地上生においては、謎のままであり続ける。

しかし、これらの”謎(es,Du,Ich)”は、むしろ”神秘(しんぴ)”あるいは”秘蹟(ひせき)”と呼ぶべきだろう。

なぜならば、これらの謎は謎のままでありながら、・・・まさに、es,Du,Ichの謎を通して、”霊的なるもの”が、人間に語りかけるからである。

 

現代においては、このようにして、カルマが開示される。

「それ/es」「あなた/Du」「私/Ich」という根源語(こんげんご)の謎/神秘/秘蹟を通して、カルマが開示されるのである。

カルマが開示される個々の瞬間を、人間は意図的に設定したり、予測したりすることはできないが、”虫の知らせ”を聞くことはあるだろう。聖処女マリアに大天使ガブリエルが訪れたように。

 

人間が受肉し、自らの体(たい)を得て、この地上生を生きるようになるのも、本質的には、その人のカルマの開示の一環(いっかん)に他ならない。

そして、その後の地上生それ自体が、やはりカルマの開示であると言うことができる。まさしく「一度きりの人生」であり、「逆戻りはできない」「取り返しはつかない」のである。その都度(つど)その都度(つど)の主体的選択と自身の意思決定が勝負なのだ。これほどの厳粛さを、人間は自らの人生以外の場所に見出すことはできない。

 

人間が成すその都度その都度の決断に対して、人間はどれほどの自信を持つことができるのか?

また、それらの決断は適切なのか?

 

人間の地上生は、「それ/es」「あなた/Du」「私/Ich」という3つの根源語の関係性によって織り上げられる。

この三者のどれが欠けても、人間の地上生は成り立たない。

だから、私が自らの魂の内に作り上げた文脈イメージ/イメージ体の中に、私は「それ/es」「あなた/Du」「私/Ich」に由来する諸々のイメージを見出すのである。

 

ここで最大限注意すべきことは、私が何らかの時点で形成し、自らの魂の内に抱いているイメージ体を、他者が全面的に理解し、それを受け容れることはないということである。

また、逆のことも言える。

誰かある人が何らかの時点で形成し、大切にしているその人自身のイメージ体を、私がすべて受け入れることもない。たとえそれが、私の親であったり、妻であったり、子であったり、友だちであったりしても。ましてやそれが、有名な思想家や芸術家であったとしても。

 

しかし、カルマは開示されるのである。