人はパンだけで生きるものではない(8) | 大分アントロポゾフィー研究会

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アニマ(anima)は、ロゴス(logos)の訪れ(おとずれ)を、待ち続ける。

アニマは(anima)、期待(きたい)している。

 

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聖処女マリアのところに、大天使ガブリエルがやってくる(受胎告知)。

 

”・・・マリアは天使(ガブリエル)に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」天使は答えた。「聖霊があなたに降り(くだり)、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。・・・」・・・マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。”(ルカによる福音書 第1章 )

 

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魂の例外的な状態において、つまり聖霊降臨という状態において、思考が純粋思考にまで高まる。

霊/精神が魂の空間へと降りてきており、それまでの(既存の)文脈イメージがいわば排除されるのである。

 

人が自らの魂の内に、何らかの文脈イメージを生み出すと、その文脈イメージがちょうどあたかも鏡のようになり、それまでは見えなかったものが見えるようになったり、鏡の枠からはみ出すと見えないままに留まり続けたりするということが起こってくる。

このように見えるようになったり、見えないままであり続けたりするものとは、他者由来の文脈イメージである。

 

他者由来の文脈イメージに対し、人は共感あるいは反感を以て、相対する(あいたいする)。

ある文脈イメージに反感を持つと、その文脈イメージは反感を抱いているその魂の内には入り込むことができなくなる。

共感を持つと、他者由来の文脈イメージと私の持つ文脈イメージとが、私の魂の空間において共振するようになり、そこから音楽的な調和のようなものが生まれてくる。

 

文脈イメージを文字通り言語で言い表すことはできない。

たしかに文脈イメージは、言語的イメージの力を借りて、思考と想像力によって作り出されるが、その過程において、主に五感に由来する様々な感覚的イメージを取り込み、利用することになるからである。

この時、これらのイメージは思考/想像力によって、変幻自在の変容を遂げる。

そして、イメージというものの謎めいた変容の経緯(けいい)を跡付ける(あとづける)のに、言語というものは力不足である。

 

常に、イメージが先行する。言葉はその後から・・・

 

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”知覚の扉澄みたれば、人の眼に

ものみなすべて永遠の実相を顕わさん”(ウィリアム・ブレイク William Blake)

 

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誰かある人の有する文脈イメージの全体像を克明(こくめい)に鳥瞰(ちょうかん)することはできないが、そのような文脈イメージの全体が、その人の魂であり、低次の自我に他ならない、という表現の仕方は適切である。

また、およそ人間がこの地上世界において生み出すすべての創造物は、他ならぬそのような文脈イメージの産物であり、極端な言い方をすれば、それら創造物自体が文脈イメージを具現化しているのである。

 

私の肉体が、時々刻々その組成を組み換え、絶えず変化するプロセスの中にあるのに似て、私の魂の中身である文脈イメージも変容することを止めない。

 

霊的存在である人間が、受肉を経て自らの肉体を獲得する。

人間の霊的核心である自我と、この地上世界を生きるために得た肉体とを結びつけるのが、魂である。

自我は、肉体に備わる五感を通して、いわば魂のスクリーン上に感覚的イメージを映し出す。さらに、五感が媒介となり、自我によって魂に備わるようになった言語感覚を通して、言語的イメージが魂の空間内に生み出される。そして、自我に由来する霊的力としての思考と想像力によって、人間はこれらのイメージを有機的に結びつけて、文脈イメージを誕生させる。

 

誕生した文脈イメージは、いわば第2の自我、そしてそれは低次の自我というべき仮象である。

それは実際、”影”のような在り方をしており、本来の自我につきまとって離れようとしない”ドッペルゲンガー”である。

それは、仮象であるから、本来の自我がそれに囚われることがなければ、無力である。