「我思う、故に、我在り Cogito ergo sum」という認識論的/実在論的絶対零(0)度を確認し、
感覚的/言語的/文脈的イメージが仮象/フィクションであることを見通した凡人ツァラトゥストラは、
次のように語った。
1 認識論的/実在論的絶対零(0)度とは、そこからすべての魂の営みが始まることを意味する。
2 「我思う、故に、我在り」という自己認識においては、思考の能動性とその思考の感覚的無媒介性とが確認される。
2-1 このような思考の能動的性格と対照的なのが、感情の受動的性格である。とりあえず、思考をロゴス/logos、感情をアニマ/animaと呼んでおこう。
2‐2 「我思う、故に、我在り」という自己認識/純粋思考の感覚的無媒介性ゆえに、この自己認識に際して、人はすべての他者から切り離され、孤絶する。このとき「我/Ich」の周囲は静まり返り、無音となり、沈黙だけがそこにある。暗黒の中に、自我の光が見える。いつになるかはわからぬが、やがて何者かの声が聞こえる時が来る。・・・「おまえはひとりでよいのか?」
3 「汝/Du 思う、故に、汝/Du 在り」という他者認識に到達することが、この地上生の本当の意味での出発点になる。
3-1 これまでの哲学の歴史、特に近現代の哲学史において、「他者の魂(思考/感情/意志)をいかに認識するのか?」という問いが立てられた時に、この問いに対する肯定的なレスポンスはほとんど見られなかったと言うことができると思う。
3-2 対峙している他者への共感が高まることによって、その他者が「汝/Du」へと変容を遂げるようになってくる。
3‐2‐1 恋愛感情の高まりは、そのような他者への共感の高まりの一つとみなすことができる。類似の共感に、親子の愛、兄弟愛、友人への親愛の情などが挙げられる。
4 「我思う、故に、我在り」という自己認識の極北において、特徴的なことの一つは、この認識が圧倒的な自己肯定感に貫かれているということである。圧倒的な自己肯定感という共感/愛に似たものが、生起している。
4‐1 いずれにしても、共感の高まりによって、この究極の自己認識において働いている純粋思考と同様の霊的思考が生じるようになる。
4-2 そのような霊的思考が、ある一定の期間持続し、高密度で生起する状態を、「聖霊降臨」と呼ぶことが適切である。
4-3 そして、「汝/Du 体験」は、本来「聖霊降臨」と等しい出来事であると言うことができる。
5 芸術作品の創造とその享受とは、本質的に同一の精神的プロセスであり、その創造と享受の場においては、まさに聖霊が降臨する。それは、いわば”神の祝福”に他ならない。
6 人間存在としての他者と他者としての自然、・・・霊的ヒエラルキア存在たち・・・キリスト