純粋思考は、感覚的イメージ(言語的イメージを含む)の媒介なしに、直接、実在/精神存在/霊的存在を思考する思考である。
私が為す思考が、純粋思考なのか純粋思考ではないのかは、自らその思考についてよく観察してみれば、すぐに判明する。そのように観察すると(自らの思考をそのように観察すること自体がすでに純粋思考であると言えるのだが)、そこに何らかの感覚的・言語的イメージが介在しているかどうかが、見えてくる。
いわゆる「思考について思考する」という「例外的状況」であり、この例外的状況の惹起(じゃっき)/創出にさほど困難を感じることのない「魂の態度」を育むことが非常に大切である。
私の有するすべての先入見/思い込みは、感覚的・言語的イメージの形態をとる。それらのイメージがいつ現れるようになったのか、またそれらのイメージがこれからどのように変容を遂げることになるのか、私には実のところまだよくわからない。
だが、私の生活の様々な局面において、私の思考と行動とが、これらのイメージによって深刻なまでに浸食されていることは、疑いようのない現実である。私は多くの場合、本質的には全くの他者(「それ es」)であるそれらのイメージと同化していると言ってもいい。
多分ゲーテはこれらのイメージのことを、「仮象/比喩 Gleichnis」と呼んだ。
人間の魂における内なる他者としてのこれらのイメージを、この地上生におけるいずれかの時点で、他者であると見抜くことができれば、そのとき人は自己認識の歩みを大きく前に進めることができる。
ルドルフ・シュタイナーはこれらのイメージのことを、「境域の小守護者 der kleine Hüter der Schwelle」と呼んでいる。
人は、この鉱物界へと生まれ落ちてこの方(受肉 ~ 成長)、常にイメージの世界に魅了され続ける。寝ても覚めても、人はこれらのイメージと共に生きている。イメージというものは、常に感覚的であり、それとともに身体的でもある。つまりイメージというものには、ある種の強い具体性が備わっているのである。
イメージの持つこの感覚性/身体性/具体性は、人間にとっては、諸刃の剣(もろはのつるぎ)である。
人間がこの鉱物界に受肉し、成長してゆくために、イメージの力は不可欠である。だが、イメージの魔力に憑りつかれ、それに執着し、依存するようになると、人はある種の狂気へと至る。
何か外なるものが、私の内なる形成力/生命力を利用して、私の魂の内にイメージを生み出す。
他者(es)が、私の魂の内に、感覚的/言語的イメージをまとって現れる。魂の内に、感覚的/言語的イメージをまとって出現するこのような他者(es)を、ヴィジョン(vision)と呼ぶこともできるだろう。つまり、極論すれば、私の魂の内に現れる全てのヴィジョン(vision)は、まさにその名前のごとく、幻(まぼろし)である。
そして多くの場合、私たちはこれらのヴィジョン(vision)を見て、これらのヴィジョン(vision)こそが現実だと思い込んでいる。
純粋思考ができなければ、これらのヴィジョン(vision)の媒介なしに、この地上生を曲がりなりにも生き抜いていくことはできない。しかし、これらイメージという媒介/中間物ゆえに、人は精神界/霊界から切り離されるのである。
イメージという媒介/中間物を通して、精神界/霊界へと至る道はない。そのような道があると思い込んで、そのような幻想の道を突き進んでゆくと、人は魂を腐敗させるアストラル的な魔界へと至る。
つまり、ヴィジョン(vision)=「境域の小守護者 der kleine Hüter der Schwelle」は、私=我/Ichにとっては、常に他者=それ/esであるという事実を、とにかく確認する必要があるということなのである。
私たちはほとんど無自覚なまま、自己疎外を繰り返し続けて、いつのまにやらヴィジョン(vision)=「境域の小守護者 der kleine Hüter der Schwelle」を生み出し、成長させ、増長させ、巨大化させてしまったのだ。そしてヴィジョン(vision)=「境域の小守護者 der kleine Hüter der Schwelle」は、片時も離れず、私のそばにいて、ついに私はヴィジョン(vision)=「境域の小守護者 der kleine Hüter der Schwelle」とほとんど一体にまでなっているので、ヴィジョン(vision)=「境域の小守護者 der kleine Hüter der Schwelle」に別れを告げるなど思いもよらない。
ここであらためて確認しておく必要があるのは、「それ/es」についてである。
「それ/es」は、精神存在/霊であるが、人間の自我ではない。人間の自我にとって、「それ/es」は永遠の他者、究極の他者である。「それ/es」は、様々に特徴づけられる。時に「それ/es」は「大地」と呼ばれ、そこには鉱物界と植物界、そして動物界が観察される。人間の他者もそこには存在している。
人間は「小宇宙」であり、「大地」は「大宇宙」に属する。「大宇宙」はどこまで行っても「それ/es」であるのに対して、人間の自我は「我/Ich」であり続ける。
「我/Ich」「汝/Du」「それ/es」は、根源語と呼ばれる。
定義の必要がない(定義しようがない)ということが、根源語の特徴である。
私見では、「定義する」という言語行為は、いかなる場合も思考の混乱を招くと思う。だから、定義の必要のない根源語を用いることにより、思考が混乱する危険性が少なくなるはずだ。