君たちはどう生きるか ~ 凡人ツァラトゥストラはこう語った | 大分アントロポゾフィー研究会

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人は、カオスの中では生きられない。

だから、天災や戦争によって、壊滅的な破壊が起こり、カオスがもたらされても、

必ず、友らと共にそこから立ち上がり、カオスと化した地上世界に、再び秩序を取り戻す営みを始める。

人類の歴史は、その繰り返しであり続ける。

 

・・・

 

あの地平線 輝くのは

どこかに君を かくしているから

たくさんの灯が なつかしいのは

あのどれかひとつに 君がいるから

 

さあ でかけよう ひときれのパン

ナイフ ランプ かばんにつめこんで

 

父さんが残した 熱い想い

母さんがくれた あのまなざし

 

地球はまわる 君をかくして

輝く瞳 きらめく灯

地球はまわる 君をのせて

いつかきっと出会う ぼくらをのせて

 

父さんが残した 熱い想い

母さんがくれた あのまなざし

 

地球はまわる 君をかくして

輝く瞳 きらめく灯

地球はまわる 君をのせて

いつかきっと出会う ぼくらをのせて

 

 作詞:宮崎駿 作曲:久石譲

 

 

・・・

 

長い年月(としつき)をかけて、人間の体(たい)は、この鉱物界を生きることができるまでに進化した。

人間の物質体は、土星紀にその萌芽を得た。エーテル体は太陽紀に、アストラル体は月紀に。そして、地球紀に至り、人間は自らの「我/Ich」(自我)を得ることになる。

自我を獲得した人間は、自らの外界としての「自然界(鉱物界、植物界、動物界)」の他に、もう一つの外界となる「人間界」を見出すことになった。

つまり、地球紀を生きる現代の人間は、この鉱物界に誕生することを通して、自らの外に2種類の「それ/es」を見出すようになったのである。「自然界」と「人間界」である。

土星紀に人間が物質体の萌芽を獲得しつつあったとき、同時に人間にとって外界である自然界の一翼を成す鉱物界が誕生していた。

太陽紀には、人間のエーテル体と植物界が、月紀には、人間のアストラル体と動物界が。そして、地球紀に至り、人間界が現れた。

 

「自然界」は、「人間界」が無くても、存立することができる。

「自然界」は、まさにその言葉通り、神/神々の意志のままに存在している。

「人間界」は、「自然界」無くしては、存立することができない。

そして、人間存在は、いつのころからか、神/神々の意志に逆らい、抗って生きようとするまでになった。

ここに、通常の「自然界」には見られない「人間界」というものの特殊性が見られる。

 

「自然界(鉱物界、植物界、動物界)」の源/故郷は、神/神々の世界にある。

では、「人間界」の源/故郷は、どこにあるのか。

「人間界」の源/故郷もまた、神/神々の世界にある。

「自然界」が、その故郷である神/神々の世界と、いまだ一体であるのに対して、「人間界」はまさしくその個体的自我によって、その故郷を旅立つことになったのである。

そして、その個体性は、「我思う、故に、我在り」と純粋思考するまでに至った。

 

このような自我体験/純粋思考は、それまでの宇宙進化の過程において、ただ神/神々のみが持ち得たに違いない。

そのいわば霊妙な体験を、人間はこの地球紀に鉱物界においてもなし得るまでに進化したのである。

鉱物界に受肉し、このような自我体験を経験することにより、人間は自らの対象意識/魂の空間の中に、自分ではない者たち/他者が現れるようになることを知る。

彼らは、「自然界」の他者「それ/es」と同様に、体(たい)を持つが、「人間界」に属しているのである。

 

人間は、いずれにしても、この鉱物界へと受肉し、そこに生きる中で、「自然界」由来の他者と「人間界」に所属する他者とに対峙する。

そして、これら両方の他者と”共働(きょうどう)”することなしに、この鉱物界を生き抜くことはできないということを思い知らされる。

鉱物たちと同様に、物質体をまとい、植物たちと同様に、生まれ生長し(生殖活動を為し)、やがては死ぬ。動物たちと同様に、食べ物や体を休める場所を求めて動き回り、眠り目覚め、他の人間たちと共に社会を形成する。

つまり、人間はこの鉱物界において、鉱物的に、エーテル的に、アストラル的に、そして自らの意志を持って生きるのだ。

少し極端な言い方になるかもしれないが、人間は自らの内と外とに広がっている鉱物界、エーテル界、アストラル界を、自らの意志/自我によって統べることにより、”よく生きる”ことができるようになるのである。

 

しかし、現代の科学は、「自然界」を事実/現実に即して説明/記述する言葉をいまだ持つことができないままである。

つまり、人間は「自然界」を理解していない。

そして、現代の科学は、「人間界」を事実/現実に即して説明/記述する言葉をいまだ持つことができていない。現代に生きる我々人間の思考が、・・・

 

我々の魂の内に、ほとんど絶え間なく去来しているのは、感覚的・言語的イメージ、そして文脈イメージである。

これらのイメージは、すべて仮象であり、虚構/フィクションだ。

つまり、私たちが、「自然界」と「人間界」の理解に関して、既に獲得していると思い込んでいるものは、思考することを通して獲得した認識ではなく、程度の差こそあれ、多かれ少なかれ恣意的だとみなさなければならないような感覚・言語・文脈イメージに他ならないのである。

 

さて、以上のようなイメージの迷宮から抜け出すことはできるのだろうか?

デカルトは、300年以上前に、同様の認識の壁のようなものにぶつかり、「我思う、故に、我在り」と自己認識することによって、この壁を突破したのである。イメージ/フィクションの迷宮から純粋思考によって抜け出したということである。