純粋思考と家事 | 大分アントロポゾフィー研究会

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純粋思考においては、すべての感覚的イメージ(言語的イメージも含まれる)の媒介が捨象される。

純粋思考は、実在を直接的に考える。

 

スーパーマーケットで買ってきた朝どれの地元産スズキ(魚)の実在性を、全く疑っていないから、私はその魚(スズキ)を捌いて(さばいて)いるのである。これが自然な本来の魂の状態なのだが、現代という意識魂の時代、高度資本主義社会においては、人間の魂の状態が、極めてルシファー的、同時にアーリマン的に先鋭化しており、物事の本来的な実在性に対するあるべき(生活のために必要不可欠の)信頼が希薄になっているのである。

 

この信頼をもう一度自らの魂の内に取り戻すためには、謙虚な気持ちで家事をすることが有効である。

家事をするためには、当然のことだが、自分の体を動かさなければならない。しかもむやみにやみくもに、何の目的もなく、気持ちを入れずに体を動かすというわけにはいかない。そうだ、気持ちを入れなければならないのである。

家事においては、諸々の事物の実在性を疑っている暇などない。生活上の諸々の事物の実在性/直接性ゆえに、家事をしていると、自らの不注意でけがをしたり、例えば、料理がうまくできなかったりする。

だが、気持ちを入れることができれば、そのような不都合が生じることを最小限にとどめることができる。

 

気持ちを入れるとは、言葉を換えれば、純粋思考をするということである。つまり、相対している事物の実在性に即して考えるということだ。

実在性を有する事物。私たちが生活する上で行ういわゆる家事において、遭遇するそれらの事物は、言うまでもなく、精神存在/霊に他ならない。もう少し婉曲的な言い方をすれば、霊的存在である。