デカルトから一歩踏み出すには - 純粋思考の射程 | 大分アントロポゾフィー研究会

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必要以上の客観性/科学性の追求、客観性/科学性に対する過剰な欲求・・・ほとんど病気/依存症の様相を呈している。

 

”客観性/科学性”という文脈は、それ自体、一つのフィクションである。

カントやヴィトゲンシュタインのように、命がけで、”客観性/科学性”をその極北に至るまで追求し続けた人には、多少の共感(同情)は感じるけれども、結局のところ、彼らは、探求の出だしに自らが設定した罠にはまってしまった。罠(探求の出発点)がすでに主観(彼ら自身の思い込み)であるから。まさに自縄自縛状態で、出発したということだ。

 

デカルトが発見したように、「我思う(認識論)、故に、我在り(実在論)」という純粋思考だけが、究極的な客観性を主張できる。しかも、この純粋思考においては、主客が合一しているということに、最大限の注意を払わなければならない。

 

しかし、ここからが難しい。

「我思う(認識論)、故に、我在り(実在論)」から、さらに歩みを進めようとしても、すぐには、行く当てが見出せないのである。どこにどのように進んでいけばいいのか?

たしかに、デカルトのこの発見は、究極的な「自己認識」である。誰もが、各自の日常の生活において、意識するしないに関わらず、この「自己認識」を基礎において、日々の課題に向き合っている。

誰もが---多分、赤ちゃんから超高齢のおじいさん、おばあさんにいたるまで誰もが---「おれはおれだ」「わたしはわたし」「ばぶばぶばぶ・・・」「わしはいったいだれなんじゃ」などと思って/感じており、これらの言明/言語ゲームの根底に、「我思う(認識論)、故に、我在り(実在論)」という純粋思考が、原形として横たわっていることは、疑う余地がない。

 

つまり、私たちは、誰もが、この鉱物界に生を受け(受肉)、成長し(物質体/エーテル体/アストラル体/自我)、他者を見出し(それ/es、汝/Du)、他者とのかかわりの中で生き(他者の秘儀/自己認識)、やがてまた霊界/精神界へと旅立つ(輪廻転生とカルマ)。

 

私たちの誰もが、受肉という出来事を通して、鉱物界へと降り立ったという事実を、否定する人は誰もいないだろう。なんやかんやと理由をつけて、否定してやろうとする変な人はもしかするといるかもしれないが、そのような人は、気が狂っているのである。

また、この地上の世界には、自分一人が存在するのではなく、他の人たちも生きているということを、疑うとしたら、そのように疑っている人に対しては、「そんな無意味なことはやめて。そんな風に考えて、いいことなんかないよ。孤独になるよ」と言ってあげた方がいいかもね。