2023.8.6-2 ST 1923年のクリスマス会議 | 大分アントロポゾフィー研究会

大分アントロポゾフィー研究会

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”普遍アントロポゾフィー協会は、1923年のクリスマスにルドルフ・シュタイナーによって設立された「個々の人間および人間社会における魂の生活を、精神界の真の認識に基づいて育成しようとする人の集まり」であり、真のエソテリックが最大の社会的公開性と結ばれることにその本質があります。”

 

 

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倫理的個体主義と協会は、原理的に対立し合う(矛盾する)概念である。

倫理的個体主義が意識魂以上の領域から来るのに対し、協会という概念は悟性魂から来ているからである。

 

この矛盾を乗り越えるためには、芸術の概念を拡大し、そのことを通して協会という概念の刷新を図らなければならない。

それはいかにして可能となるだろうか。その可能性が確かに存在するということは、シュタイナーの眼には明らかだった。それはシュタイナーにとってもまだあくまでも(永遠に)可能性としてのみ存在するものだった。つまり可能性というものは、永遠に可能性に留まり続ける。人間の魂というものは原理的にそういう構造をしているのである。可能性に懸けて(かけて)みようと思えるか否か、やってみようと行動をおこすのかやめておくのかは、倫理的個体主義の精神に則る(のっとる)ならば、あくまでもあくまでも個人的な問題である。(個人の)自由の問題なのである。

 

協会というものは組織である以上、概念的に(原理的に)(個人の)自由と対立する。わたしやあなたの気持ちを、協会というものはどうしても抑えつけてしまうものなのである。たとえ協会自身が「そんなことはしない」といくら言い張っていようとも。もちろんアントロポゾフィー協会がそのように言い張っているとわたしは言っているのではない。

このとき協会の意思・意志というものがあるとしたら、それはいったいどこにあるのだろうか。またそれはどこからやってくるのだろうか。わたしたちはそれ(協会の意思・意志)をその都度見出だすために、便宜的に(つまりそれは言ってみればやむをえない妥協なのだ。このことはシュタイナー自身も言ってる)定期的に総会を開催しているのである。しかしそれでも協会というものの意思・意志とわたしたち協会員個々人の考えとは常にどこかしら相容れないところが残るものだということを、シュタイナーの『自由の哲学』を熟読しているあなたやわたしは常に心しておく必要がある。このなんともしれない違和感・不具合感のようなものを。

 

『自由の哲学』を読んで倫理的個体主義について概念的に追求するだけの話ならば、わたしたちはルシファーの誘惑にさらされつつ、日常生活における熾烈な他者の秘儀へと参入すればよいだけのことである。実際日々の暮らしの中でわたしたちは(協会員ではない一般の人たちも)そのけっこうシビアな秘儀の試練にさらされている。毎日の日常生活というものが他者の秘儀のためのもっともよいフィールドなのである('ω')。

 

しかしことここに至って組織という文脈がからんできたときには 、どうしてもアーリマンに対峙しなければならなくなる。つまりあなたやわたしはルシファーという他者と対決しながら同時に、アーリマンという巨大な悪の存在(自然界の悪魔という他者)にも向き合うことになるというわけなのである。なぜならば組織という概念そのものに(最終的には)全体主義にまで至る恐るべきアーリマン性が潜んでいるからである(そのように断言したい)。ドイツにおいてそれはヒットラーによる国家社会主義(ナチスNationalsozialismus)の独裁体制という形で現実のものとなった。アーリマンのこの地上の世界への受肉を許してしまうような脆弱さ(ぜいじゃくさ)を、協会(たとえそれがアントロポゾフィー協会であっても)というものは、じつは孕んで(はらんで)いるということなのだ。組織というもののもつこのような原理的な危うさ(あやうさ)について、協会員であるみんなは(わたしやあなたは)最大限意識的でなければならない。メンバーとしての自覚というものがなければならないということなのだ。

 

ただしそうは言っても、「協会 association という概念と組織 organization という概念を単純に同一視してもいいのか」という問いは残るのかもしれない。もちろん、組織という概念は協会という概念よりも古い概念、というかより原理性の強い概念である。M・ウェーバーは組織というものを「合法的な支配における権力の道具」と概念規定した。的確なとらえ方だと思う。一方、協会 Gesellschaft は、わたしの手持ちの辞典によると「社会、(社会学的概念としては)利益社会、(目的・会則などを持つ)団体、協会、組合 society、会社、合名会社 company」となっている。ここから考えると、協会というものは一般的に言って「資本主義システムの中で生きのこるための妥協の産物的な組織の一形態」ととらえておくのがよさそうである。ちょっと複雑な概念だが、その原理において「組織」と「協会」とは共通したものをもっていることは明らかだ。その共通性は、次のような問題意識に基づいている。それは「いかにして人間の集団を秩序づけるか」というものである。人間界における秩序の問題なのである。この問題は人類がこの地球上に誕生して以来、ずっとついてまわってきた根源的な問いであって、例えばキリスト教では教会組織、資本主義経済においては会社組織や組合組織、政治システムとしては国民国家、教育では学校組織などなど数え上げればきりがない。いずれにしても秩序という概念がキーポイントである。どんな力や手段を用いて秩序をもたらすのか。また秩序をもたらす主体はだれなのか。

以上の視点から見たときに、アーリマンとの対峙というテーマの中に、わたしたちは組織という概念のどのような現代的意味actualityを見出すであろうか。

 

人間がひとりでは全体(宇宙)に対峙・対決できないということは、古代から現代にいたる人類の歴史を見れば、それは明白である。直感(直観)的にもそのことははっきりしている。だが人間はいつの時代も、組織的にそのこと(全体に対峙すること、くだけた言い方をすれば自然に向き合うこと)にことあるごとに挑戦し続け、無数の失敗を積み重ねてきた。これこそが人類の歴史であり、人類の霊的な進化に資する営み・努力でありつづけたのである。まさにプロメテウス的な努力である。エソテリックな観点から見ると、人類のそのようなプロメテウス的な営為には高次の霊的存在たちが深くかかわっているというのが(シュタイナーの立場からすればこれはたんなる主観的な意見表明などではなく、精神科学的な認識ということになる)アントロポゾフィーの思想なのである。

 

さて、そのようなアントロポゾフィーの課題により近づいていくためには、現代においてはまず意識魂の問題をしっかり考えなければならない。そのためには人間の主要な魂の力である思考、感情、意志の現実を、自らの直観思考・純粋思考によって正確にマッピングすることが不可欠である。そのことをいまからやってみよう。

 

受肉という出来事をとおして人間は鉱物界を生きるようになる。そしてそこで同じように鉱物界を生きる植物や動物たちに出会う。鉱物界は時間と空間が支配する世界でアーリマンの力が働いており、その力は自然法則として現れる。天体の運行は驚くべき規則性をもっており、地球環境は天体の規則性に応じてさまざまに姿を変える。風景を眺めるのはじつに興味深い。植物たちはそうした地球環境の多様なあらわれに対応するために、アーリマンに由来する鉱物界の機械性をみずからの内にとりいれたのである。人間の眼に植物たちがきわめて規則正しく生きているように見えるのはそのためである。そして植物のない世界は必ずや殺風景なものになってしまうにちがいないと人間は思うのである。動物界は魂の世界だ。そこにはかれらの習性そしてかれらの魂の中に渦巻いている怒りや喜び、誇らしさや悲しみの感情を、わたしたち人間は共感と反感をもってながめるのである。多くの動物たちはかわいらしいが、人間を攻撃する猛獣もいる。そして人間はこのような自然(鉱物界、植物界、動物界)を自分たちが生きるために利用する宿命なのである。食べなければ生きていけない。このときわたしたちは次のように考えなければならない。

 

それはわかった。ではわたしのとなりに生きているあなたやそれからかれらの問題はどうなのどうなるの?あなたたちはいったい何者なの?わたしはいったいだれ?マルチン・ブーバーはこの問題を、「我」と「汝」そして「それ」という視点から深く考えた。ブーバーの思考はぜひ参考にすべきだとは思うが、かれの『我と汝』を通読するかどうかというようなことは本質的な問題ではない。自分で考えること(倫理的個体主義)がなによりも大切なのだ。

わたしたちって(ひとりのわたし/わたしひとりではなくって)いったいどうなの?という問題なのである。人間界の謎がまだのこされているのだ。だから先ほどの問いがもどってきたというわけである。たくさんの人たちが、というかこれまで地上の世界を生きそして死んでいったみんなが、それからいま生きてそしてやがて死んでゆくわたしたちが、この問題にぶつかりつづけこの問題を解決しようと挑戦しつづけてきた(いる)。挑戦する人間の魂は精神の誇りに満ち溢れている。さて、この誇りの感情はどこから来るのだろう。わたしの直観思考では、それは芸術的なるもの(永遠に女性的なるもの)がもたらしてくれる。芸術はルシファーの光に照らされその輝きを増す。だが同時にルシファーは人間の魂のうちに自己顕示欲を発生させる。だからシュタイナーの『人類の典型』という木彫作品ではルシファーは舞い上がりそして墜落する(墜落したところから今度はキリストによって救済され昇天する)という姿で彫り込まれている。ファウストは最後の場面で数限りない地上的善行にもかかわらずメフィストフェレスと結託していたため地獄に落ちるが、永遠に女性的なるもの(おそらくこの場合はキリスト存在)によって救済されるのである。芸術というものはいわばキリストの化身(けしん)になることができると言わなければならない。その化身ははじめはルシファーのように見えるが、人間の魂から自己顕示欲が消えていくにしたがって、徐々にあるいは突然キリストの姿へと変容するのだ。癒しの力はここから来る。人間は芸術によって癒される(救済される)のである。

 

ひるがえってひとりひとりの人間の魂の様子をもういちど見なおしてみよう。ひとりひとりという視点だから、ほかならぬ私(わたし/”我思う故に我在り”のわたしのことである)自身を振り返って見るのが一番手っ取り早い方法だ。自分の魂のなかをのぞきこみ観察するのである。この観察を手抜かりなくやり遂げるためには意識魂の力である純粋思考・直観思考が必要である。旧来の悟性的思考では道を誤り、とんでもない心理的迷宮にはまり込んでしまう。

まずは思考の特徴を見てみよう。人間の意識は志向性を持っており、注意を一点に絞らざるえないため(フッサールを参照してもよい。ただ彼の本はきわめてわかりにくいと思う)、思考はその制約を常に受けるということである。だから一度に複数のことを考えるのが非常に難しいのである。「あっ気づかなかったぁ」とあとになってすこしびっくりすることがけっこうあるはずだ。それがちょっとした事故につながったりする。鉱物界の情け容赦のない冷たい機械性(アーリマン)ゆえに。だが時代精神であるミカエルの衝動につきうごかされると、人間は自らの思考を直観思考・純粋思考へと変容させたいと感じるようになり、そのための努力をしはじめる。この努力は日々の生活のなかでなされるのが一般的であり、またそれによる精神的成果もそれに応じて実りのあるものになる。そのような時代になっているのである。この努力のことをわたしは他者の秘儀=悪の秘儀(意識魂の時代における自己認識)と呼びたいと思う。この超資本主義(暴走する資本主義)の時代において、むかしから存在した秘儀参入というもののあたらしい形態をそのように特徴づけたいと考えるのである。まず、自らの低次の自我が他者によって鏡のようにはね返ってきて、ほんとうは自分の低次の自我の姿を見ているのにそれがあたかも相手の姿であるかのように思い込む。ほんとうは自分が怒っているのに「アイツなんで怒ってんだ?」と感じてしまうのである。まず相手に対する反感がわき起こるのである。共感が出てくることはまずない。それが悟性魂の特徴である。相手に対する反感を感じているわたしを見ながら、相手は相手の方でわたしに対する反感をいだいている。わたしがその人に反感を感じているからその人がわたしに反感を感じたというわけではない。わたしという存在がいることそのこと自体がいやなのである。はじめっからいやなのである。わたしもそうだ。みんなそうだ。わたしという存在がだれであれ、そんなことにいっさい関係なく会った瞬間に(直接会ったりしなくても、たとえネット上でその匿名性のなかで知っているだけでも)その人のなかで反感が起動するのだ。すでにわたしの魂の中ではそれが(反感が)発動している。常に臨戦態勢なのである。わたしとその人が言葉を交わすとお互いの反感は増幅され、憎悪やほんとうの怒りにまで発展し、さらには暴力に至る場合だって出てくるだろう。しかしここで立ち止まってよく考えてほしい。だからと言って反感がたいへん悪い感情要素であると結論を下すことは早計なのである。そもそも人間はこの反感の力によって特に鉱物界に対峙する素質を獲得する(した)のである。この素質のことを対象意識と呼ぶ。この対象意識という素質なしには人間の認識の営みは成立しない。認識行為の最初のところに対象意識がある。対象意識は人間の魂の基盤となっているのだ。常に人間は外にある何か、内にある何かを対象として見つめているのである。これは人間の意識の志向性というのと同じである。

鉱物界に向き合いそれをよく観察し、人間は悟性的認識行為(原自然科学)をとおして鉱物界独特の機械性(アーリマン)に出会う。誤解をまねくおそれがあることも覚悟のうえで図式化してみると、対象意識(反感)→ 観察 → 悟性的思考 ⇒ 悟性的認識・悟性的感情という流れである。思考が認識のみならず感情をも生み出している。観察したものについて思考するというのが認識行為の根本原理である。対象意識のもつそのような原理的な特性から、主観と客観という二つの世界が人間の前に出現する。内なる世界と外なる世界である。外なる世界が人間にとって他者としての性格をもつことは直観的に明らかだ。では内なる世界はどうであろうか。内なる世界は主観の世界でありそれを魂Seeleと呼ぶことができる。魂のなかに人間の自我が生きている。わたしは低次の自我と呼ばれる存在である。そして魂のなかに生きる人間の自我は低次の自我と高次の自我とに分かれている。高次の自我もわたしなのだが、受肉という出来事を経て鉱物界に生きるようになったことにより、低次の自我(暴走する資本主義社会の中を生き抜こうとなんとかかんとか努力するわたし)を自分(高次の自我であるわたし)から分断した。時間と空間という鉱物界の物理的制約のなかに生きるためにはそのことが必要だった。なぜなら高次の自我のもともとの故郷である精神界(霊的存在たちの世界)にはそのような制約(時間と空間という鉱物界に特有のしばり)はないので、低次の自我を自分から分離させ、それを鉱物界に慣れさせる必要があったのである。このとき感覚魂と悟性魂が生み出された。感覚魂は肉体にそなわる諸々の感覚器官と密接にむすびついている。悟性魂は鉱物的な神経器官(機械的な神経のネットワーク)としての脳と強くむすびついている。

 

では現代社会の日常を生きる他ならぬ、私(わたし)自身の魂の世界を見てみよう。映画の書きかけのシナリオのように説明してみたいと思う。

 

わたしはそううつびょうである らしい 。きょう(2023年8月8日)がたまたまでもない通院予定日(あたらしい病院は完全予約制なのだ)に当たっていて朝ご飯を食べてから洗濯をして 草刈りもしてから それから妻のくるま(車)で病院に向かうことになっている。台風6号はまだそんなに近づかないことになっている(テレビの天気予報によると)。今年の6がつ1にちにターイン(退院)して   狂  キョオ(今日)、大体 (代替医療) 2ヶ月ちょっとになるが、・・・だめだ  憑かれる  疲れたよーん('ω') そっゆーわけでえ  修了  終了(おわり)・・・このやりかたはえっれー疲れるなあ、ほんともうダメダコリャ。だから終了。「説明したい」衝動と弱い年老いた体力のしんけん勝負だったわけだが、衝動の負けということが結果的に明らかになったという次第なのである。だからもう終了。だからいつかまたヒマなときにその気になったら再挑戦してリベンジを期したいとここに空虚に宣誓しまーす(^^)/・・・っんんんっ・・・

 

ふつう以上のような躁状態におちいっている人は、自分の気持ちを静めようとして悟性的に思考する。それは今までの思考習慣だ。換言すればその思考は悟性魂から来るのである。悟性魂にはミカエルの時代よりも前の時代に由来する融通の利かなさというアーリマン的な特徴がある。きわめて機械的なのである。その典型的なあらわれがコンピューターを使用することで得られ、分析という一般に科学的だと思われている行為に多用され、もはや世界中に蔓延してしまっている機械的な便利さ(不便さ)←これは二進法(デジタル 0/1)に由来する、それから宇宙物理学の中で目まぐるしく展開されているようなどこまでも悟性的な数学的純粋思考、そしてふつうの人にはまず理解できない複雑怪奇な現代記号論理学である、という事実にふつうの人はあまり気づいていない。いずれにしてもアーリマンのもつ機械的な性格が問題なのである。気づいていないことをそんなに責めるわけにもいかないだろう。今はなんだかんだ言ってもそういう時代なんだから。そういう時代に生きていることはわたしたちの運命なんだから。だからむしろその時代性(わたしたちの運命)にどのように対峙しどのように考え(感じ)そしてそれからどのように生活していくのか行動していくのか、何をまず始めるのかどう始めるのかそしてどう動くかいったいどう行動すればいいんだ・・・などなどの方が問われているのである(だれから問われているのか?)。

 

じつはこのように説明しながら一方でわたしはこのようなかなり長いながーいひとつひとつの日本語文が、読んでいるみなさんの退屈を誘うにちがいないとほとんど確信してはいるのだけれども、純粋思考(直観思考)によるあたらしい認識を説明するためには特徴づけという芸術的な表現方法が最適だとどうしても感じるし、ミカエルという現代の時代精神の活躍の場である意識魂というフィールドの現実について明らかにし、ミカエルから来る要請(ミカエル衝動)に自分なりに応えていくためには、やはりこの方法しかないと確信するので続けます(でもその確信はここ23日(にさんにち)でかなり激しく揺らぎました。はっきり言って確信がどっか遠くへ逝っちゃいましたよ。だからと言って虚無主義というわけでもないのですが・・・)。

 

特徴づけ(イメージ化)のためには時間が必要なのです。細部の彫琢が不可欠なのです。 精神科医 精神界に向き合うこれは鉱物界に生きる人間存在の宿命です。そして退屈しないためにはユーモアってヤツが必要なのです。「退屈はよくない」という趣旨のことはあの坂口恭平氏もその何冊もある著書の中で何回も述べています。でもなにか大切なことをちゃんと説明しようとすると、かならずと言ってよいほどくどくどと回りくどい悟性的な語り口になってしまうのはどうしてのでしょう?坂口恭平氏の文章はそのようなものではありません。かれの文章はいわば命の泉みたいなものである、とこのわたしが言ってます。

もう一回もとにもどりましょう(どこに?)。このようにながーい説明をずーっとつづけているとその展開というかすじみちがこんがらがってくる危険性があります。見通しがきかなくなってくるおそれがあるわけです。この種の説明行為において悟性の言語のみにたよっていると、人は煮詰まって鬱(うつ)状態に落ち込んでしまうのがふつうです。悟性をとおしては悟りに至ることは不可能なことはもはや直観的に明確です。おもしろいことにもうみなさんはお気づきのことだと思いますが、悟性の悟(ゴ)は悟り(さとり)の悟(ご)ですね。ちょっとした皮肉なんでしょうか(^^)/(わーいわーい)。

 

このような危機的状況を回避するために現代フランス思想は脱構築déconstruction(デリダ)という技術を発明(発見)しました。しかしじつのところそれ(脱構築)だけではじゅうぶんではありません。たしかに脱構築という手法は画期的なものだと思います。なぜなら脱構築というのは表現(説明)技法の一種であり、ひとことでいえば、テキストクリティーク(批評)のための視点の刷新だからです。そして今わたしがこの文章を書いている(種々の特徴づけ表現をしている)このやり方自体が他ならぬ脱構築なのです。テキストが新しい視点のもとに照らし出され、これまで読み取ることのできなかった新しい意味が浮かび上がってくるわけです。文脈(テキスト)というものは常に重層的ですから(しにふぇしにふぃあん-ん)、読み方次第でいくらでも多様な姿をとって現れてくるのです。異化作用が連続するのです。編集という作業はテキストの置き換え/組み替えによってもたらされるこのような多種多様な異化の様相を提示してみせるという目的でなされます。個々の編集者がこのような問題意識をわたしと共有してくれていたらいいのですが。

ここで考えなければならないことがあります。フランス現代思想家のテキストクリティーク(脱構築)においては、現代という時代が意識魂の時代であり、この意識魂の時代は他ならぬ新しい秘儀参入(他者の秘儀(悪の秘儀))の時代なのだという視点が弱い(明確になっていない)のです。ルシファーとアーリマンという悪の存在を見通すことが十分にはできていません。視点設定の際にはかならず共感の力に由来する直観(思考)が働きますが、フランス現代思想にはむしろ反感の力をより強く感じてしまいます。もちろん個々の思想家によってその濃淡はあるでしょうが、わたしはその反感のオーラを直感(直観)的に感じてしまうので、フランス現代思想に深入りするのはやめることにしました。それらの多くがじつはまだ悟性魂の産物にとどまっていると思われてならないのです。

 

わたしたちの魂の内部に癌(がん)のように巣くい感染症のようにひろがりはじめた強烈な自己顕示欲と鉱物界に由来するどこまでも冷たい非人間的な機械性。わたしたちは主にこの二つの悪に適切に対峙しなければならないのです。そのためにはシュタイナーの精神科学が必要です。この精神科学的研究はわたしたちの日々の生活の場でなされます。日常生活こそが意識魂による認識行為のためのフィールドなのです。(すこしだけ比喩(ひゆ)的な言い方をすれば)純粋思考(直観思考)はわたしたちの日常生活をフィールドワークの対象とします。生活という魂のあらわれを生活している魂自身が認識する。まさしく自己認識であり、この認識の形態こそ直観(思考)/純粋思考なのです。ここに主観と客観は統一するのです。デカルトの”我思う(認識論)故に我在り(存在論)”という自己認識の原形が、このようなかたちで発展し変容Metamorfoseを遂げる時代に突入したのです。

 

さてもうひとつのキー概念について述べたい。キー概念だぜっ。最重要だぜ。いくぞーいくぞーおおおおおおかみ🐺おおーーーんんんううううーんんんsss sss sssぐりもーぐりもーエレーヌぐりもー♡

芸術のもつ公開性という特徴Eigenschaftがなければ、人間はみずからの魂の内にふつふつと突然わけもなくこみ上げてくる共感のエネルギーを適切にOPEN(おおぷん)⇒ まっくす(MAXMAXMATRIXsexsex『Matrix』の精緻かつ壮大かつもはやアーリマンをも超えたかのような錯覚(幻想ファンタジールシファーグノーシス)に我を忘れて恐怖/歓喜している自分を見出すというもはやなんともわけのわからない世界観を堪能(たんのう)しよう)に発揮できないにちがいない。わたしが共感のエネルギーに満ち溢れてだれかに近づいていくと、その人はわたしの発する共感のオーラに感応(かんのう/原プラトニックセックスオーガズム)してみずからの魂を共振させる。わたしのまなざしや顔の表情そして体の動作(身振り)や声の響きからあなたやかれらはわたしが共感という原初的エネルギーに満ち溢れた感情Gefühl(げふゅーる)に充満していることをすぐに感じ取るのである。本を読んだり音楽や絵画を鑑賞するときにもまったく同様のプロセスが進行している。また自然の風景や都市の建造物を見ているときにも同じことが人の魂において起こっているのである。それらの対象に人は共感のオーラをまさに直感(直観)的に感じているのだ。なぜならばそれらがほかのだれか(それは人間である必要はない。もちろん人間である場合が多いだろう)によってまさしく直感/直観的に(直感/直観は共感に由来する)創造されたものだからである。創造行為は共感によって成されると極言しても間違いではない。あなたはそのことを人間界を含む森羅万象(世界/宇宙)の中に直感/直観するはずだ(もちろん森羅万象の世界にはガチガチコチコチあーりまんも蠢いて(うごめいて)はいるのだけれども)。共感という感情成分はその性質上必然的に公開性へと発展してゆく。なぜならば共感の本質的な意味は他者とのつながり・むすびつき(共同性Gemeinschaft)というところにこそ存するからである。(あれあれもう今回の認識の営みの目的である「倫理的個体主義と協会というものの原理的矛盾」の正体の解明がほぼ80%ぐらい解決しちゃいましたね(^^)/)。

人間は芸術によって新しい共同性Gemeinschaftを獲得することができるかもしれない。シュタイナーはそのようなきわめて未来的な問題意識をもって死ぬまで生きていた(当然である)苦闘し続けたのである。その苦闘が報われ課題が成就を遂げたのかどうかは実のことろまったく問題ではない。それを生涯にわたってやり続けたそのまさにそれはプロメテウス的な人類の典型の姿であったという点が一番大切なところなのである。あとはわたしたちに託されたということなのである。~タノンまーすよよよ(ルドルフ・シュタイナー)よ~ん(Rudolf Steinerおよびクリスティアン・ローゼンクロイツ(薔薇十字))。ベートーヴェンの第九の第四楽章(「歓喜に寄す」(シラー)による大合唱つき)にこのような芸術の最上級の公開性の典型を感じてほしい。しかし同時に直観し認識してほしい。「この交響曲の第四楽章で人類の歴史は終わっていいのか」ということを。これは「問い」の形態をとったまさに直観(思考)/純粋思考に他ならないのである。

 

芸術作品は音響、色彩、かたちなどを媒介(メディア)として生み出される。それらの媒介は基本的に鉱物界に由来している。だがここでよく考えてみてほしい。人間の魂や肉体はどうなのかと。わたしたちは鉱物界に由来し動物や植物といわば共有している肉体と精神界に由来する魂とを犠牲にして(媒介にして)芸術を生み出します。ここでどういうことが起こっているかと言うと、わたしたちはこのような創造行為において、いわばみずからの肉体と魂の主体性を奪っているのです。肉体と魂を供儀としてささげる(だれに?)ことによって、わたしたちは美というもの(いわば芸術というものの精神)を享受することができるというわけです。

 

さてわたしたちは以上のように・・・っんんんっ・・・ふぐぐぐ🐟ふんぐぐぐっんんんっふん(  糞  )んん~(  汝よ去れ!  何時(いつ)まで(  何時(なんじ)まで  )つづくのかなあこれ。もうあきたわ うんざりよ あーあっあーん*凡人ツァラトゥストラの前妻)

 

シュタイナー自身は社会芸術という直接的な表現は使わなかった。それを言ったのはヨーゼフ・ボイスJoseph Beuysである。

 

例えば国民国家というのも人類のそのような組織的な挑戦のひとつである。人類によるかずあるそのような挑戦(協会という概念はそのひとつ)のなかで、大きな成功をおさめたものがどれだけあるのかと問われたときに、「ある」と答えきれる人がどれだけいるだろうか。いやいやそもそも成功ってなんなんだろうね。

どんな挑戦もいわば投企(とうき M.ハイデガーの Entwurf,J.P.サルトルの projet)なのであって、やってみなければわからない実にスリリングな営み・行為(行動/アクション)であることは間違いないのである。

 

1923年のクリスマス会議とそこから誕生した普遍アントロポゾフィー協会は、現代の種々ある投企(この概念を発見した人はやっぱりすごいよね。なんかカッコイイよね)というもののなかでも、非常にユニークな(斬新な)同時に霊的aus Geistなものだった。高次のヒエラルキア存在たちが見守り、倫理的個体主義を代表する面々(誤解をまねく言い方かもしれないが)が勢ぞろいして、まさに公開の場でそうだいな(壮大なSpektakulär)他者の秘儀が共同でなされようとしていたのだから(成されたのだから)。そしてその中心にあのかれ(どのかれ?ひとりなの?)がいたのだから。

 

しかし今、わたしは誤解を恐れず極言したいと思う。1923年のクリスマス会議自体がまずはきわめてルシファー的なアントロポゾフィー協会(普遍アントロポゾフィー協会の原形)であったにちがいないと。その後(シュタイナーの死後特に)メンバーたちは外的には強烈なアーリマンの力(資本主義的な暴力としてあらわれた)に歴史的に翻弄され、内的には霊光のいや増すルシファーの誘惑にさらされて(多くのものがギラギラとした輝きをきらめかすひけらかすほのめかす自己顕示欲のために)いわばボロボロになってしまったにちがいない。ただただ大天使ミカエルの光(精神科学自由大学)だけが遠いはるかかなた(未来)をゆびさしていた。だがその自由大学には学生(神秘学(Geheimwissenschaft)徒)がいなかった。もしかするとひとりもいなかった。たしかに物理的にはいたかもしれないが、やっぱり〇〇  〇  的には・・・っんっ。

 

わたしたちはミカエルとともに道を歩む。

 

そのとき社会そのものが芸術になる

社会芸術 社会有機体三層化 アントロポゾフィー協会 ~~♡♡♡~♡……wunderbar!

 

さてここまで来た。あなたはこれを読み終えたということになる。あなたはこれをあなたの直観の力で発見したか。あなたの純粋思考によってこれのなかにアントロポスを見たか。

 

***

 

シュタイナーが若い頃かかわりをもった神智学協会は、東洋的性格を色濃く持ち、いわゆるグル(導師)を頂点としたヒエラルキー組織だった。初代のトップはブラヴァツキー夫人とオルコット大佐。

 

”1891年、ブラヴァツキー死去。後継者としてアニー・ベサントを指名するが、権力闘争となる。

1902年、会員の一人ルドルフ・シュタイナーがベルリンに神智学協会(アディヤール派)のドイツ支部を設立、その事務総長に就任。同地でシュタイナーは雑誌『ルツィフェル』を発刊(後に『ルツィフェル=グノーシス』に改名)。

1907年、オルコット死去、ベサントがインドの神智学協会(現神智学協会アディヤール派)のトップに就任

1909年、チャールズ・ウェブスター・レッドビータがインド人少年ジッドゥ・クリシュナムルティを見出し、ベサントが養子として英才教育を施す。

1912年、神智学協会の第2代会長であったベサントとレッドビータがクリシュナムルティを世界教師(=キリストの再来)とする動きに反発し、ルドルフ・シュタイナーは神智学協会を脱退

1913年、シュタイナーが分離独立、人智学協会(アントロポゾフィー協会)を設立。

1925年、ベサントがクリシュナムルティをトップとする「東方の星教団」設立。ディオン・フォーチュンの『コスミック・ドクトリン』が発表され、フォーチュンは神智学協会キリスト教神秘主義ロッジの会長となる(1927年まで在任)。

1929年、クリシュナムルティ本人が「真理は集団で追求するものではない」との考えに基づき、「東方の星教団」を解散する宣言を行い、神智学およびすべての宗教から離れる。インド、スリランカなど一部を除き、神智学協会の多くの組織が離反、協会の大部分が消滅する。”(ウィキペデアより)

 

***

 

一 切 の 無 常 な る も の は
た だ 影 像 た る に 過 ぎ ず。

か つ て 及 ば  ざ り し 所 の も の、
こ ゝ に は 既 に 行 は れ た り。
名 状 す べ か ら ざ る 所 の も の、
こ ゝ に は 既 に 遂 げ ら れ た り。
永 遠 に 女 性 な る も の、

我 等 を 引 き て 往 か し む。

 

(ゲーテ『ファウスト』より 「神秘の合唱」 森鴎外訳)

 

Alles Vergängliche
Ist nur ein Gleichnis;
Das Unzulängliche
Hier wird’s Ereignis;
Das Unbeschreibliche,
Hier ist es getan;
Das Ewig-Weibliche
Zieht uns hinan.

 

 aus Johann Wolfgang von Goethe "Faust"

 

***

 

♪ フランツ・リスト 『ファウスト交響曲 Eine Faust-Symphonie in drei Charakterbildern nach Goethe, mit Schlusschor』

♪ リヒャルト・シュトラウス 『英雄の生涯 Ein Heldenleben』『アルプス交響曲 Eine Alpensinfonie』

♪ 「蘇州夜曲」~ いろいろな人がへろへろカバーしてますよ。ふふふ(ほそのはるおみ曰く)

♡♡♡

♪ わたしじゃないひとanatademonaihito plays フランツ・リスト 『愛の夢 第三番』 Franz Liszt: Liebestraum Nr. 3 ~ "O lieb so lang du lieben kannst" ♡♡♡~♡