2023.8.2-5 ST | 大分アントロポゾフィー研究会

大分アントロポゾフィー研究会

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例えば、何か映画を見ているとする。

好きな俳優が出ている。さすがの演技力である。思わず引き込まれる。

物語りの筋の流れを辿ることはちょっと難しい気はするが・・・それは脚本のせいだろうか・・・でも映像は美しいし、カットの入れ方もうまいと思う・・・なんだか感動してしまっている自分にぼんやりと気づきながらも、同時に反発というか抵抗感というかそのようなものをその映画に感じ始めている自分にも気づく。

 

このときわたしの魂の内に生じているのが、低次の自我の自己防衛反応というものである。

映画に感動するというのは、その映画の芸術性つまり魔力によって、わたしの魂があちらの世界にもっていかれたということである。これは、ある意味においては、かなりやばい事態なのである。躁うつのきらいのある人にとっては特に。その映画のルシファー性とその人のもって生まれた気質的・体質的なルシファー性が共振し合い、魂のなかに光り輝き舞いのぼるようなルシファー的雰囲気が充満し始める。このような状態のことを”躁状態”と人は呼ぶ。その呼び方・言葉の選択の仕方は適確だと思う。しかし、躁状態=双極性障害であると断定することはできない。DSMの恣意性はもはや言うまでもないことだが、問題はそこからだけ来るわけではない。

 

芸術のもつ魔術性は、創造的生を生きようとする者にとって、生きる上でなくてはならないものである。そして、芸術のそのような魔術を一度でも体験すると、人はその記憶から逃れられなくなってしまう。人はそのような生き物であると本当は誰もが知っているはずだ。同時にわたしたちは、芸術のために家庭をかえりみなくなったり、命を落としてしまった芸術家がいることも知っている。

人は芸術を必要としていると同時に、芸術によって死の深淵に近づきもする。だが、これは芸術のもつ同じコインの両面だ。ルシファーの魔術によって命と死の深淵へと近づいてゆくがゆえに、人は自らの魂の生命の泉が生き生きと波うつのを目の当たりにすることができるようになる。この体験には魂を本当に復活へとみちびく力がある。

 

映画に感動しつつも反発するというのは、だから、きわめて人間的な魂のあり方なのである。

わたしの低次の自我は、死の深淵をのぞき込んで恐怖の感情にとらえられる。今見ているものは美しいが同時に恐ろしい。その”恐ろしい”という感情を、人は思わず”つまらない”とか”くだらない”と言い換えてしまう。自らの魂がわけもなく引き裂かれてゆくような心もとない感じがしてくる。ひとりになってしまうような気がする。恐れている自分を誰にも知られたくない。見やぶられたくないと思う。弱みをにぎられてしまうのではないか。外部の他者性が怪物のように不気味に迫ってくるような気がする → 「怖い」(正直な感情)→ 「つまらない」「くだらない」(すり替えによる防御)→ 「おれの勝ち」(低次の自我の錯覚)

 

しかしそれは自分がその映画に感動している証拠なのである。低次の自我が霊的な魂に近づいた証なのである。何も恥ずかしいことではない。

 

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~ Liszt:Trauervorspiel und Trauermarsch, S.206  Beatrice Berrut/piano