家事や野良仕事が、心地いいのは、人間を相手にしなくて済むからである。
台所で料理したり、畑で農作業をしたりしているときに遭遇するのは、一言でいえば、”他者としての自然”である。
それらの作業を一人でやっている限り、ただ卵やピーマンなどの食材や、鍬や移植ごてなどの道具を相手にしていればいい。そして、それに気持ちよく集中できる。
そのような場面に、例えば、妻が「包丁研ごうか?」と口をはさんできたり、「今日、パーティだったよね」と友だちが突然訪れたり、仲間が「手伝うよ」と言って軽トラで到着したりすると、事態は急変する。
彼らは悪気があってわたしのところにやって来たわけではない。むしろ、善意で来てくれているのである。
だが、その善意がうっとうしく感じられるのである。個人の自由に対する侵害のように思ってしまうのである。
ここで気づかなければならないのは、そのように”うっとうしい”とか”自由の侵害だ(勝手にさせてくれよ)”とか思っているのは、実のところ、わたしやあなたの”低次の自我(魂)”だ、ということなのである。
素晴らしい機会が訪れているわけだ。
”他者の秘儀”へと参入する、またとない機会が!
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ひとつの物語がある ~
~ ある男がいる。
彼は躁うつ病にかかっており、いつのころからか神社仏閣巡りを趣味とするようになった。
躁状態になると、彼は時間を惜しんで、「次に行く寺は奈良県に決定!」「そのためには8月2日の朝4時には家を発たなければならないな。高速に乗った方が全然いいに決まってるよな」「妻も絶対に喜ぶに違いない。歴史と仏教の勉強になるし」・・・という具合に計画を立て始め、そのために徹夜までしてしまう。ひとりで盛り上がって、乗りに乗ってくるのである。
もちろん、どのコースが一番速いか、どの宿がお手軽か、ネットで綿密に調べ上げることによって、家計への配慮も怠ってはいないつもりである。
彼のそのようなルシファー的熱狂に、ブレーキをかけるのは極めて困難である。
もしかするとひとりで盛り上がりすぎて、きわめてせっかちになり、注意散漫な状態に陥って、事故に遭い、大けがをしたり、死んでしまったりするかもしれない。誰か他の人を事故に巻き込む可能性だって大きい。
躁うつ病の原因は、いまだ解明されておらず、病院に行っても、炭酸リチウムを処方されるだけである。炭酸リチウムは、副作用もいろいろあるが、とにかく躁状態になるのを未然に防ぐという効果はあるらしい。また、処方がどちらかというと難しい薬で、定期的に薬の成分の血中濃度を検査しなければならない。
彼の妻は、彼が躁になったら、口をきかないようにしているそうである。
わたしは、そのような彼のことを、どちらというとかなり軽蔑していたのである。「ほんとどうしようもないやつだな。そんなに無理して、日本中の寺なんか見て回って、いったい何の意味があるんだよ?さっぱりわけがわからない。自分の妻にまで嫌がられてるのに」と思っていたのである。
だが、ある気づきがあって、少しだけ考えを改めた。
「彼にとって神社仏閣は、わたしにとってのベートーヴェンなんだ」と気づいたのである。
そして、次のような思いに駆られるようになった。
「なんで彼の妻は、彼から一番大切なものを奪おうとするんだろう?なんでいっしょに喜んで寺を回らないんだろう?自分の夫の車でその助手席に乗って、ビールでも飲みながらのんびり行けばいいじゃないか。理想の夫婦の老後の生活としては最高じゃないか。なんて冷たい女なんだろう」と彼の妻に対する敵愾心のようなものが湧いてきたのである。
しかし、もう一度頭を冷やして考えてみた。
「事故に遭ったらどうする?誰か人をけがさせたり、死なせてしまったら?本当に彼の家の家計は大丈夫なのか?・・・」
多分、彼と彼女は、心を割ってじっくり話し合わなければならないのだ、と思う。
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”確かに、神秘学の学徒は楽しみを求めなくてはなりません。なぜなら楽しみを求めることをとおして、外界は神秘学の学徒のほうに近づいてくるからです。楽しむことに対して鈍感になると、神秘学の学徒は、まわりの世界から養分を吸い取れない植物のような状態に陥ります。しかし、だからといって、楽しむことだけに終始するならば、神秘学の学徒は、自分のなかに閉じこもってしまうことになります。そのとき神秘学の学徒は、自分自身にとっては価値ある存在になるかもしれませんが、世界にとっては何の意味ももたない存在になってしまいます。このとき神秘学の学徒は、自分自身のなかで集中的に生き、自分の「自我」を強く育成するかもしれませんが、世界は彼を締め出します。世界にとって、彼は死んでいるのも同然なのです。
神秘学の学徒は楽しみを、世界のためにみずからを高貴なものに変えるための手段と見なします。神秘学の学徒にとって、楽しみとは、世界についてさまざまなことを教えてくれる情報提供者のようなものです。神秘学の学徒は、楽しみをとおして世界についてさまざまなことを学んだあとで、それを内面的に消化する仕事にたずさわります。神秘学の学徒が楽しみをとおして学ぶように心がけるのは、学んだ事柄をみずからの知識の宝物として蓄えるためではなく、世界のために役立てるためなのです。
あらゆる神秘学に共通する基本原則が一つあります。何らかの目標に到達しようと思うならば、わたしたちはこの基本原則に背くことは許されません。どのような神秘学の修業においても、神秘学の学徒は、この基本原則を守るように教えられます。その基本原則とは、次のようなものです。
自分自身の知識を豊かなものにし、自己の内面に宝物をため込むために求める知識はすべて、あなたを正しい道から逸脱させます。一方、みずから気高い存在となり、世界の進化と歩調をあわせて成熟するために求める認識は、あなたを前進させます。” (ルドルフ・シュタイナー『いかにして高次の世界を認識するか』松浦賢訳 柏書房 P.17,18)