『曲がった松の木を真っ直ぐに見ろ』…という禅の公案があります。
理屈で考えても答えは出ない。曲がっていようが曲がっていまいが、自分が真っ直ぐに見ればそれでよい。
そこに紛れもない自分自身がいれば、それでいいのです。
自分が自分になりきったとき、心自ら歓喜する。自然は自燃。自らが燃えると書きます。
先日、政治家に政治を教えるような方を車に乗せて長時間送迎する機会がありました。
私がオヤジと呼ぶ人の親父『日本の親父』です。(長渕剛さんのInstagramにも載っています)
日本の親父と呼ばれる人は、縁という円の中心に居るから境界線が無いんです。
我々はどうしても関係性や立場でピラミッドの様な形を作ってしまう。
政治でも、吉田茂や田中角栄の様な縁という円のど真ん中に居られる政治家が現代には居ません。
自らが境界線をつくってしまう。
自分が自分で在れば、境界線は溶けてしまう。
自らの境界線を溶けいらせること。頭は要らない。考えても答えが出ない。考え方より感じ方。
現代社会は虚構や虚勢、仮面、虚像の中生きている人が多い。自分が誰だか分からない。
だから疲れる、だから無自覚な境界線が出来る。
自分が他人を観て思うことは、自分が観せている。他人が自分を観て思うことは、他人が観せている。
だから自分が自分で在ること、紛れもない自分自身こそ感性。随所に主となれば、立つ処皆真なり。
歴史家のアーノルド・トインビーが死ぬ前に残した言葉があります。
『現代人は何事もよく知っている。自分のことを、除いては。』
アーノルド・トインビーの言う通り、世の中で一番わからないのは他でもない自分自身。
心理学でも『他者認識は自己認識の投射』という通り、人は自分の写しがゆえに、自分が観えない人間にはまた人も観えない。
中国の教えで『人が分かるというのは、自分が自分で分かった幅である』という言葉があります。
自らの人生において、縁に一瞬の早いも、一瞬の遅いもなく『出会うべき人には必ず出会っている』といわれています。
一日に、沢山の人間と会います。沢山の人間と話します。
境界線を溶けいらせながら、縁という円の中心にいる紛れもない自分自身を感じながら生きたい。