母の甘えから間接的に生じた自己否定について。 | 今を感じて心が前に進める言葉を届ける。鳴響詩翠。

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社会人。

今後の生き方を模索したい。
その時々の思いや考えを残していくつもりです。

おはようございます。おゆきです。

 

昨日に引き続き、今日は母の話をしたいと思います。

アダルトチルドレンの生き方シリーズを読んでいて気付いたお話。

 

 

母はよく、「こんなに愛情を注いで育ててあげたのよ。」

「結構寛大な心で受け入れてない?」と言う。

 

確かにそうだと思って生きてきたし、ある角度から見れば事実だとは思う。

別に虐待をされたとか、今休んでいることをひどく責めたりはしていない。

 

でも親の望む生き方をしてもらえるように、

①他人を引用して「こんな人になるべき」「こんな人になってはいけない」

と非言語のメッセージを飛ばしていた

②自分の意見や考えに否定から入る(駄目とは言わないから余計質が悪い気がする。)

 

こうして特定の生き方をしなければ価値がないと植え付けられ、

自分の考えや意見は認められず、他人の考えが正しいと思わされて生きてきました。

 

勿論本人に悪意があって故意にしているつもりはなく、

それが正しい、私のためだと信じてやってきたのだと思います。

 

でもこれを客観的に見れるようにならないと

いつまでも親の意向に沿う生き方しかできず、

親に否定されたらそのたびに深く傷ついてしまいそうなので強調して書きます。

 

そして少し具体例を見て振り返ってみようと思う。

 

 

①他人を引用して間接的にこんな人であるべき、と植え付けられた例ですが

「こんな人になるべき」はよく

「こんな学歴があってこんなところに就職してって凄いわよね」

「親戚の○○ちゃんはあんなにはきはきして自分から動いて凄いわよね。

おゆきちゃんよりも年下には見えないわ」

「やっぱり薬剤師や看護師って安定していていいわよね~」

「真面目で苦労を知っている人と結婚するのがいいわよね」

と言ってきます。

 

私が過度に情報を受け取りすぎな面もある気はしますが、

親から少なからず

「学歴を持って大企業に行きなさい」

「あなたももっとしっかりして能動的に動ける立派な人になりなさい」

「安定した職を手にしなさい」

「苦労を知っている人が素晴らしい、苦労を知らない人には価値がない」

と言われている気がします。

 

そして人を褒める部分に関してはまだ良いのですが、

他人を否定する話をわざわざ持ちかけるのが一番質が悪いと思います。

 

職場で出会ったお客さんを

「今日こんな人が居てね~」とよく話してきます。

そういう人は決まって母が他人を否定してきます。

 

例えば

・定職になかなかつけず職を転々としている人を母は

「たった数ヶ月でよく辞めるよね~」と言い、姉は「うわぁ」と引く。

(私には定職につけなくても心折れずに何度もトライしている凄い人に見える)

 

・高学歴だけど病んでしまって休学中の人・高学歴だけど地元の中小企業に入っている人を

「この人ほんとに大丈夫?」「折角有名大学に入ったのにもったいない。」

と邪推する。

(私もこの人たちのように病んだり就職がうまくいかなかったらこんな風に悪く言われるのかな、

と不安になる)

 

・テレビに出ている有名人を

「言っちゃ悪いけどこの人あんまり顔綺麗じゃないよね」「目鼻立ちがちょっと・・・」

と揶揄する。

(言える立場でもないし、言っちゃ悪いなら言わないでほしい。気分が悪くなる)

 

・仕事のストレスをきっかけに太ってしまった兄を

「あんたそれはあんまりでしょ」と否定する

(兄は傷ついていないかもしれないが、仕事を頑張っている反動なのだから否定しないでほしかった。

私はそんな兄を尊敬しているし、痩せたいと思ったときに頑張ればいいと思う。)

 

といった感じ。

だから定職につけない人、苦労をしていない人、体型や見た目が綺麗でない人には

何か悪いことを言われるとか、価値がないと思われると思って生きてきた。

 

他人を否定されるたび、暗黙の意志として

「あなたはそうならないでね」と念を押されているかのような、

ありのままの自分という存在を間接的に否定されているかのような感覚に陥っていた。

 

 

次に②の自分の意見や考えに否定から入る具体例だけど、

 

・私が高校受験で憧れていた私立高校のことを話したら、

「あの制服はちゃらちゃらしていてあんまり好きじゃなない。」と言われた。

 

・大学生で当時付き合っていた彼との旅行を歓迎してくれなかった。

 

・高校を辞めて編入したかった、暫く休みたかったが、

「そんなんじゃ社会人になって生きていけない」「編入は大変だからしない方がいい」

と言われた。

 

・高校生の頃に心屋仁之助さんにハマっており、

「将来心屋さんのお弟子さんみたいなカウンセラーになりたい」と話すも

「社会人になって人生経験を積んだわけでもないのに、今からカウンセラーなんて無理」と言われた

(その考えを受け止める、今は無理でも心理学の道を進んだらいいんじゃない?等前向きな言葉もなかった)

 

・社会人になって私が同期に「回転ずしを食べに行きたい」と話したら驚かれた話をしたら

「普通社会人にもなって回転ずし食べたいとか言わないでしょ。恥ずかしい。」と言われた。

 

・(細かい話にはなるが)「韓国に行ってみたい」と言うと

「お母さんは行きたいと思わないな。なんで行きたいと思うか分からない。」と反応され

「日帰りとか1泊2日で弾丸旅行してみたい」と言うと

「それなら2泊とか3泊した方がいいでしょ」と返される。

 

こんな感じ。

大きなことから些細なことまで挙げてみました。

 

些細なことに思われるかもしれないが、こういうことが高頻度で起こっていた。

 

考えが違うことはいい。

私も突飛な発言をよくするから、驚くことはあると思う。

 

でもそれに被せるようにして親の発言を返さなくてもいいのでは、と強く思う。

 

例えば韓国旅行の話なら

「弾丸旅行って考えはなかったけどそれもいいね。

韓国は興味がないから、お母さんと国内旅行するときは2泊3日くらいはしてほしいなぁ。」

と言ってくれたら幾分とマシなのではないか。。

 

あとよく「こんな歳にもなってそんなことも知らないの。恥ずかしい。」と言われる。

だから自分は幼稚だと思うし、それが恥ずかしいことだと思う。

恥ずかしくない人であるために「社会的な正解案」を常に意識する。

 

こうしてありのままの自分が出せなくなる。分からなくなる。

 

でも先日、社会人の友人とご飯を食べに行く約束をして

やっぱり回転ずしが食べたくて「回転ずし屋さんに行きたい!」と伝えた。

 

そしたら何も驚かずに「いいね!」と言ってくれ、無事お寿司を食べに行く約束ができた。

 

もしかしたら場面にふさわしくなかったら驚かれたり引かれたりすることもあるだろうが、

母に「恥ずかしい」と言われなければ必要以上に傷つかなかったのではないか。

ただ次からは場面に応じて考えようと、ただ素直に思えるのではないか。

 

 

全て親のせいにして自分はあれができないこれができない、と言い訳をしないようにしたいが、

やはり親の影響で「あるべき人物像」が強く描かれ、そうでなければ受け入れられないと思って育ってきた。

 

自分の意見を出すのを過度に恐れてしまった。

 

でもこれは親の甘え(こんな風に育って私を満足させてほしいという甘え)から来ているのだと認識して、

距離を取らなければいつまでも親の発言に囚われて私はありのままで居られなくなるのだと思う。

 

そういう意味でも今日は母の甘えについて書き連ねてみた。

 

また明日以降には幼少期の頃誰にも助けてもらえなかったお話でも書けたらいいな。

こうやって思い出したことをどんどん書き連ねて、

自己肯定感が欠如して育ったのは仕方ないことだと思えるようにしたい。

そして私はありのままの私を肯定していいんだよって本能的に思えるようにしたい。

 

また書きますね。それでは。