実際の富士川の戦い(後半)【治承・寿永の乱 vol.52】 | ひとり灯(ともしび)のもとに文をひろげて

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今回も治承・寿永の乱の話。第52弾になります。

これまでの話はこちらからどうぞルンルン

 

今回は前回の続き、実際の富士川の戦いはどのようだったのかをみていきたいと思いますニコニコ

 

 

 

🟥 富士川の戦いが行われた場所

 

富士川の戦いの場所は現在の富士川の流路付近で行われたと解釈されがちですが、実はそれより5、6kmほど東だった可能性があります。

 

この当時の富士川は現在と違って、河口付近で大きなデルタ地帯を形成していたものと思われ、今も静岡県富士市西部地区にはかなりの数の“島”がつく地名があります(加島、中島、川成島、柳島、鮫島、森島、五味島、宮島、五貫島、高島、水戸島、瓜島、高島、青島、荒田島など)。これらはもともと富士川や富士川水系の潤井川(うるい-がわ)の中洲であったと考えられます。

 

阿仏尼あぶつに:?~弘安六年〔1283年〕)の『十六夜日記』にも、

 

“明けはなれて後、富士河を渡る。朝川いと寒し。数(かぞ)ふれば十五瀬をぞ渡りぬる”

(すっかり夜が明けてのち、富士川を渡った。朝の川は大変寒い。数えてみれば十五瀬を渡った)

 

とあり、富士川を渡るのにいくつもの瀬を通ったことがわかります(※)。

 

※・・・十五瀬については、阿仏尼が京都を出発して以来、十五の川を渡ったとする解釈もあります。

 

 

そして、富士市内には富士川の戦いにちなむ旧跡がいくつかありまして、代表的なものとしては富士市吉原にある「平家越え」と「和田義盛神社」が挙げられます。

 

「平家越え」は源氏方が平家方の陣営を越えたとされる場所で、「和田義盛神社」は和田義盛が陣を張った場所とされ、地図で示すと両所とも現在の富士川より東方にあったことがわかります。

また、『吾妻鏡』には富士川の戦いにおいて平家方の武士・印東常義(いんとう-つねよし)が源氏方に討ち取られたとしていますが、その場所とされる鮫島も現在の富士川の流路より東です。

 

 

もっとも、これらの旧跡は史料的に裏づけされているわけではないようですが、これらの場所に源氏方や平家方が布陣したと見て『吾妻鏡』の富士川の戦いについて記された部分を改めて見てみます。

 

 

 頼朝は駿河国加島にご到着された。また左少将維盛、薩摩守忠度、三河守知度らは富士川の西岸に陣した。そして夜中になり、武田太郎信義は兵略をめぐらせて、ひそかに平家軍の背後を襲ったところ、富士沼に集まっていた水鳥がいっせいに飛び立った。その羽音はまるで軍勢が押し寄せてきたかのようだった。

 

(武衛駿河国賀嶋に到らしめ給ふ。また左少将惟盛、薩摩守忠度、参河守知度等、富士河西岸に陣す。而(しか)して半更に及び、武田太郎信義、兵略を廻らし、潜(ひそ)かに件の陣の後面を襲ふの処、富士沼に集まる所の水鳥等群立す。その羽音偏に軍勢の粧(よそほ)ひを成す。❲『吾妻鏡』治承四年十月二十日条より❳)

 

 

この中にある「富士沼」というのは浮島沼とも呼ばれ、現在の静岡県富士市東部から沼津市西部の愛鷹(あしたか)連峰南麓に広がる大湿地帯でした。現在は干拓が進んで田んぼが広がっていたり、工業地域となったりしていますが、大雨が降ったりすると冠水しやすく、今も所々で小規模な湿地(沼)を見ることができます。

 

地図をご覧いただければわかりますが、この富士沼も現在の富士川より東にあり、先述の「平家越え」「和田義盛神社」付近での戦いであったなら位置的に辻褄が合います。

 

 

🟦 富士川の戦いは平家v.s.甲斐源氏の戦いだった?

 

 先ほど挙げた『吾妻鏡』の記述にはもう一点不可解な部分があります。それは“武衛駿河国賀嶋に到らしめ給ふ”という一文です。

 

また地図をご覧いただくとわかりますが、この駿河国賀嶋は現在の富士市加島付近と比定されていますので、さきほどの甲斐源氏軍・平家軍それぞれの位置関係と照らしてみると、平家の後方に頼朝本陣があることになってしまい、頼朝の本陣後方で甲斐源氏が平家軍に奇襲をかけようとしていたことになってしまうのです。

 

これについて歴史家の先生方は、『吾妻鏡』の編集者が富士川の戦いを「頼朝主導の戦い」としたいがために、その内容に手を加えた結果、地理的な矛盾を生じさせてしまったとの見解が多く、富士川の戦いで主体的に動いたのは、この当時はまだ頼朝と対等の関係であった甲斐源氏軍だとしています。

 

先日挙げさせていただいた九条兼実『玉葉』の中でも東国追討使(平家本軍)へ宣戦布告の使者を送ったのは武田方(甲斐源氏)としていますので、富士川の戦いは平家と甲斐源氏との戦いであって、鎌倉源氏軍(頼朝軍)は甲斐源氏軍の援軍(後詰め)のような立ち位置だったのでしょう。そして頼朝自身は黄瀬川宿(沼津市大岡・清水町長沢付近)に本陣を構えて、戦の推移を見守っていたものと思われます。

 

『吾妻鏡』の記述はこのように曲筆を施したと思われる箇所が多々あり、頼朝を中心に物事が動いているような書き方をしますので、その記述を鵜呑みにすることは禁物です。

 

ちなみに、甲斐源氏軍は黄瀬川宿にいる頼朝と一旦合流したあとUターンする形で平家軍(東国追討使)と対峙したと『吾妻鏡』はしていますが、それも改めて考えて見ると変な話です。

 

実際に甲斐源氏軍が布陣したと考えられる富士沼西岸、「平家越え」「和田義盛神社」付近は甲斐国から南下する春田道が駿河国の平野部に出、根方街道や十里木道(古東海道)との結節点でもありますので、甲斐源氏軍は戦前に黄瀬川の頼朝とは合流せず、甲斐から南下してそのまま平家軍(東国追討使)と対峙したと考えた方が自然なのです。

 

 

🟨 富士川の戦い後の動き

 

『吾妻鏡』ではこの富士川の戦いが終わったのち、頼朝が武田信義を駿河守護として駿河国(静岡県東部・中部)に置き、安田義定を遠江守護に任じて遠江国(静岡県西部)へ向かわせたと記しています(治承四年十月二十一日条)。

 

しかし、この記述についても、敗走する平家本軍を甲斐源氏が追撃して駿河・遠江の両国まで制圧してしまったのを頼朝があたかも指示した形に取り繕ったものと思われます(守護の設置はもう少し後のことになると思われます)

 

このように甲斐源氏軍が駿河・遠江まで進撃したことは鎌倉源氏軍とは別系統の指揮で動いていた表れと見ることができます。

 

この頃の鎌倉源氏軍(頼朝方)の者たちは軍勢を西へ進めることに消極的で、まずは自分たちの本拠地の保全を優先していた節が多分に見受けられるからです。

 

これは次回またお話いたしますが、この頃の関東はまだ完全に頼朝の影響下に入っていたわけではなく、とりわけ北関東地域(常陸・下野・上野)ではまだ敵対している勢力や動向を明らかにしていない勢力が多数ありました。つまり、西へ平家を追うよりも先に後顧の憂いを断たなければ頼朝方も動きづらかったのです。

 

なお、甲斐源氏の駿河・遠江国進出は頼朝方に好都合でした。

上方の平家と関東の頼朝の間に甲斐源氏がいることによって、駿河・遠江両国が緩衝地帯となって平家の脅威に直接さらされることがなくなり、頼朝方は関東の掌握に専念できるからです。

 

 

🟩 終わりに

 

以上、実際の富士川の戦いについて、前半では『玉葉』『山槐記』『吉記』といった同時代の史料を、今回の後半では現地の旧跡に基づいて探ってみました。

 

これらによって、『吾妻鏡』や『平家物語』の記す富士川の戦いの様子と少し違う点がうかがわれるものの、伝聞や地元の言い伝えによるため、確証するには至らず、従来言われている富士川の戦いの様子を覆すまでにはなれないのが残念なところです。

 

 

ということで今回はここまでです。

 

富士川の戦いは平家本軍と甲斐源氏との戦いでしたが、それは源氏方の不戦勝というあまりにもあっけない結果となりました。

 

しかし、この戦いのあっけなさがかえって、この後の治承・寿永の乱の趨勢に大きな影響を及ぼし、一つのターニングポイントだったと言っても良いくらいの重要な意味を持つものとなりました。

この戦を境にこれまで平家優勢という情勢が明確に崩れ始めて治承・寿永の乱はますますその混迷の度合を深めていったのでした。

 

 

今回も最後までお読みいただきありがとうございました。

(2021年9月17日加筆修正しました)

 

 

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(参考)

上杉和彦 『戦争の日本史6 源平の争乱』 吉川弘文館 2007年

川合 康 『日本中世の歴史3 源平の内乱と公武政権』 吉川弘文館 2009年

五味文彦・本郷和人編 『現代語訳 吾妻鏡 1頼朝の挙兵』 吉川弘文館 2007年

関幸彦・野口実編 『吾妻鏡必携』 吉川弘文館 2008年

石井進 『日本の歴史7 鎌倉幕府』 中央公論社 1965年

黒板勝美編 『新訂増補 国史大系 (普及版) 吾妻鏡 第一』 吉川弘文館 1968年

岩佐美代子 校注・訳 『十六夜日記』(新編日本古典文学全集48 中世日記紀行集) 小学館 1994年

遠藤喜三郎  『静岡縣富士郡誌』 富士郡役所  1914年