実際の富士川の戦い(前半)【治承・寿永の乱 vol.51】 | ひとり灯(ともしび)のもとに文をひろげて

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治承・寿永の乱、第51弾です音譜

これまでの話はこちらから。

 

前回『平家物語』が記すところの富士川の戦いの様子をお話させていただきましたが、今回は実のところ、どのような様子だったのかを見てみたいと思います。

 

 

 

この富士川の戦いは実質平家本軍と源氏勢との戦いだっただけに、京都などの上方の記録でもその様子をうかがうことができます。そこで参考となる史料が、例によって藤原兼実九条兼実:くじょう-かねざね)の『玉葉(ぎょくよう)』と藤原忠親中山忠親:なかやま-ただちか)の『山槐記(さんかいき)』。そして今回は藤原経房吉田経房:よしだ-つねふさ)の『吉記(きっき)』といった史料も参考になります。

 

 

 

 

ではまず『玉葉』(治承四年〔1180年〕十一月五日条より)から。

(最初に拙い現代語訳、続いて色付き小字にて読み下しを載せています)

 

 

伝え聞いたところによれば、追討使らは今日(11月5日)、日が暮れてから京に入った。まず平知度が入京した。その勢わずか20騎。続いて維盛が入京。この勢もまた10騎に過ぎないという。

彼らは昨月(10月)16日に駿河国の高橋宿に着いた。これに先立って、駿河国の目代および勢力を持つ武勇の者の軍勢3000余騎が甲斐国の武田の城(拠点)に攻め寄せたところ、皆ことごとく討ち取られてしまった。目代以下80余人の首を切り、路頭にかけられたという。17日の朝、武田方より使者を維盛の館に送った〔書状を携えて〕。その書状には、

”年来お目にかかりたいと思っておりましたが、今もってその思いを遂げられずにおります。幸いにも宣旨の使いとしてこちらへ下向されるとのことで、当然なすべきこととして参上するべきところですが、程遠く〔一日かかる距離という〕、道は険しく、すぐに参ることが難しいのです。またこちらへお渡りいただくのも面倒なことでしょう。よって浮島原〔甲斐と駿河の間の広野という〕へお互い行き向かい、そこでお目にかかりたいと思います”

と、書かれていたという。藤原忠清はこれを見て大いに怒り、使者二人の首を切ってしまった。

18日、(追討使らは)富士川の河辺に仮屋を構えた。これは明朝19日に攻め寄せる支度である。そこで官軍の軍勢の数をかぞえたところ、4000余騎であった。やがて陣も設置し、軍議も終わって各々が休息をとっていると、官軍の数百騎が急に敵軍の方へ下ってしまった。引き留めようにもどうすることもできず、残る軍勢はわずかに1000、2000騎に及ばないほどになってしまった。一方、武田方の軍勢は40000余だったという。

 

これでは敵対することもできないため、ひそかに退却した。これは(藤原)忠清の謀略である。維盛はあえて退却しようとは思っていなかったが、忠清が退却することの理を説き、再三にわたって教示したため、多くの者がこれに賛同して、維盛も同意せざるを得なかったという。京都に帰ることになってからというもの軍勢の士気はみるみる下がっていき、残っていた軍勢の半数が逐電(逃亡)してしまった。それまでの事の次第を見るに、まったくもってただ事でなかったという。

 

今日(11/5)、勢多(せた:今の滋賀県大津市瀬田)に着き、まず使者〔使者は馬允満季(うま-の-じょう-みつすえ)〕を禅門(清盛)に送って子細を報告した。これを聞いた清盛は大いに怒って、

 

「追討使を承った日、命を君(安徳帝)に預けたのだから例え亡骸を野に曝したからといってどうしてこれが恥となろうか。追討使を承った勇士が戦果をあげずに帰ってくるなんていまだ聞いたことがない。もし京都に入るものなら誰が目を合わせるだろうか。不覚をとった恥を平家に残し、愚か者の名を世に留めるのか。早く路から姿を消せ。さらに京都へ入ってはならぬ!」

 

と言ったという。けれども(維盛は)ひそかに入京して検非違使の忠綱(藤原忠清の子)の邸宅に寄宿し、知度は維盛より先に入京していて禅門(清盛)の八条の邸宅にいるという。

 

(以上、)伝え聞いたあらかたの事を書き記した。きっと書き漏れもあろう。ただしこれは軍陣に加わった者の話である。他にも子細を話していたが、私の筆力では十分に書き表すことができない。

 

又伝へ聞く、追討使等、今日晩景に及び京に入る。知度先づ入る。僅に二十余騎。維盛追つて入る。又十騎に過ぎずと云々。先に去月十六日、駿河国高橋の宿に着く。これより先、かの国のい目代及び有勢の武勇の輩、三千余騎、甲斐の武田城に寄する間、皆悉く伐ち取られ了んぬ。目代以下八十余人頸を切り路頭に懸くと云々。同十七日の朝、武田方より使者を以て〔消息を相副ふ〕維盛の館に送る。その状に云はく、年来見参の志ありと雖も、今に未だその思ひを遂げず、幸に宣旨の使として、御下向あり。須らく参上すべしと雖も、程遠く〔一日を隔つと云々〕、路峻しく、輙く参り難し。又渡御煩ひあるべし。仍つて浮嶋原に於て〔甲斐と駿河の間の広野と云々〕、相互に行き向ひ、見参を遂げんと欲すと云々。忠清これを見て大に怒り、使者二人頸を切り了んぬ。同十八日、富士川辺に仮屋を構へ、明暁十九日攻め寄すべき支度なり。而る間官軍の勢を計る処、かれこれ相並び四千余騎、手定めの陣を作り議定已に了り、各休息の間、官兵の方数百騎、忽に以て降り落ち、敵軍の城に向ひ了んぬ。拘留するに力無く、残る所の勢、僅に一二千騎に及ばず。武田方四万余と云々。敵対に及ぶべからざるに依り、竊に以て引き退く。これ則ち忠清の謀略なり。維盛に於ては、敢へて引き退くべき心無しと云々。而るに忠清次第の理を立て、再三教訓し、士卒の輩、多く以てこれに同ず。仍つて黙止する能はず。京洛に赴きしより以来、軍兵の気力、併しながら衰損し、適(たまたま)残る所の輩、過半逐電す。凡そ事の次第直事にあらずと云々。今日勢多に着き、先づ使者を以て〔馬允満季〕子細を禅門に示す。禅門大に怒りて云はく、追討使を承る日、命を君に奉り了んぬ。縦ひ骸を敵軍に曝すと雖も豈恥とせんや。未だ追討使を承る勇士、徒らに帰路に赴く事を聞かず。若し京洛に入れば、誰人か眼を合はすべきや。不覚の恥を家に貽(のこ)し、尾籠(おこ)の名を世に留むるか。早く路より趾(あと)を暗くすべきなり。更に京に入るべからずと云々。然れども竊に入洛し、検非違使忠綱の宅に寄宿すと云々。知度に於ては、先づ以て入洛し、禅門の八条の家にありと云々。大略伝説を以てこれを記す。定めて遺漏あるか。但しこれ軍陣に供奉する輩の説なり。子細多しと雖も、短毫に及び難きものなり。

 

 

 

続いて『山槐記』(治承四年〔1180年〕十一月六日条より)です。

 

 

ある者がいうには、追討使の右少将維盛朝臣が今朝方旧都(平安京)の六波羅へ入った。(維盛は)9月18日に駿河国へ着いた。同じ月の19日頼朝の一党は富士川に陣営を置き使者を遣わしてきた。何を言ってきたのかは知らない。維盛は忠景(忠清)に使者の処遇をどうするか尋ねたところ、忠景は、

「兵法では使者を斬りません。ですがそれは私合戦の時のことでございます。今追討使として(逆賊に)返答するべきものですかな。まずあちらの子細を尋問して斬るべきと存じます」

と答えた。維盛はこの言葉に従って使者を拷問した。使者が言うには、(源氏方の)軍兵は数万あり、あえて敵対するものではないという。この問いのあとに(使者を)斬首してしまった。ある人はこれをめったにないことであるという。

 

官兵はわずかに1000余騎、まったく戦うことはできなかった。それに諸国の兵士はみな内心では頼朝に心を寄せており、官兵らは互いに心変わりを恐れ、しばらく逗留していれば(心変わりした者らは)退路を塞いで包囲しようとするだろうと言い合った。忠清らがこの事を聞き、戦う意欲をなくしてしまっていると、(ちょうど)宿の傍らにあった池の鳥が数万にわかに飛び去り、その羽音が雷のような音を出した。そこで官軍の兵はみな軍兵(敵)が攻め寄せてきたものと疑って夜中に引き退いた。自ら宿所であった館を焼きながら、雑具などを持って、身分の上下を問わず競うように走った。(しかし)忠度や知度は(忠清らが)引き退いたことを知らず、彼らの後を追うように退いた。忠景は伊勢国へ向かい、京師に維盛は入った。近江国の野道に着いたときは50,60騎あったという。この事をある者は感心した。兵法で(戦わずに)引き退くことは無難の策であるからである。またある者はこの事を批難した。

 

近日あちらこちらでデマがはなはだ多い。これらのデマが実であることは少ないと思われる。とはいえ、巷の話を聞き、それに従ってあらかた記した。

後日、頭弁(とうのべん:蔵人頭〔帝の秘書室長のようなもの〕で弁官〔行政事務担当〕を兼任した者)経房が示し送ってきて言うには、東国追討の事、平中納言(頼盛)と平宰相(教盛)が下向すべきという指示があるものの、まずは伊勢守清綱(平清綱)を東海道より下向させるという。また鎮西(九州)の武士を船にて東国へ遣わすとも言っている。薩摩守忠度、三河守知度、筑前守貞俊(平貞能?)、大夫尉忠綱(伊藤忠綱)は三河国に留まり、右少将維盛は近江国にいることを聞いた。新都(福原京)では(この度の事態を)非常に嘆いているという。

 

或る者云はく、追討使右少将維盛朝臣今暁旧都六波羅に入る。九月十八日駿河国に着く。同じき十九日頼朝の党不志河(富士川)に営し使を送る。その状知らず。維盛朝臣為す所を忠景(忠清)に問ふ。忠景曰く、兵法使者を斬らず。然れどもこの條、私合戦の時の事なり。今追討使として返答及ぶべきかな。先づ彼方(かなた)の子細を問ひて斬るべしとてへり。維盛朝臣この言に従ひて痛め問はしむ。使者云はく、軍兵数万あり、敢へて敵対を為すべからずとてへり。この問ひの後斬首し了んぬ。或いはこの事難しと云々。官兵纔(わず)かに千余騎、更に合戦に及ぶべからず。兼ねてまた諸国の兵士内心みな頼朝に在り、官兵互ひに異心を恐れ、暫く逗留せば、後陣を塞ぎ囲まんと欲すと云々。忠景(忠清)等この事を聞き、戦はんと欲する心無きの間、宿の傍らの池の鳥、数万俄に飛び去る。その羽音、雷を成す。官兵皆軍兵寄せ来たると疑ひ、夜中に引き退く。上下競ひ走る。自ら宿の屋形を焼く中、雑具等を持つ。忠度知度この事を知らず。追ひ退きて帰す。忠景伊勢国へ向かひ、京師に維盛朝臣入京す。近州の野路に着く時五六十騎ありと云々。この事或いはこれを感ず。兵法引き退くに随ふ事無難の故なり。或いはまたこれを謗る。近日門々戸々虚言甚だ多し。この事定めて実少なきか。然れども閭巷(りょこう)の説聞き随ふに及び粗(あらら)注す。後日頭弁経房(吉田経房)示し送りて曰く、東国追討の事、平中納言〔頼盛〕、平宰相〔教盛〕下向すべき由沙汰あると雖も、先づ伊勢守清綱定安海道より下向すべしと云々。また鎮西の武士船より遣はすべしと云々。薩摩守忠度朝臣参川(三河)守知度、筑前守貞俊、大夫尉忠綱参河国(三河国)に留まり、右少将維盛朝臣近江国に在るを聞こゆる所なり。新都歎息の気あり。

 

 

 

そして先ほどの『山槐記』にも「頭弁経房」とチラと名前が出てきた吉田経房の『吉記』(治承四年〔1180年〕十一月二日条より)。

 

 

追討使の事でちまたのウワサが飛び交っている。ただしある者が言うには、権亮(ごんのすけ、平維盛のこと)が駿河国に下着したおり、駿河国の軍勢2000余騎〔目代を棟梁として〕でもって甲州に攻め寄せた処、(敵の甲斐源氏は)目代の軍勢が通過した後にその道を塞ぎ、木の下や岩影に歩兵を隠し置き、これを皆ことごとく矢を射たてて討ち取らせた。(目代方は)非戦闘の下人少々のほかに(戦地から)帰還した者はいなかった。

 

その後謀反の輩〔頼朝か、武田か〕が牒状(廻し文)を送ってきた。その状の内容を詳しくは聞いていない。その状を持ってきた使者を糾問した後に首を斬った〔使者を殺害したことを感心する者はいなかったとか〕。

 

その後頼朝襲来とウワサが伝わってきた。彼らの軍勢は巨万で、追討使の軍勢では敵対できない。よって引き返そうと思っていたうちに、手越宿の館で失火して〔追討使に従っていた坂東の者どもが火を放ったという〕、身分の上下もなく気を失うくらいに驚いたため、ある者は甲冑を捨て、ある者は馬に乗ることを忘れて逃げ去ったのである。

 

これはつまり東国の軍勢が近江国よりみなことごとく(自分たちに)味方するように兼ねてより根回ししていたために、あえて(追討使に)味方する者はいなかった。ある者は自身は参陣していても、一族の者や家人・従者までは伴って来ず、ある者は形勢を見て逆徒に従うなど、いよいよ官軍弱しと見るやそれぞれが逐電し、追討氏の軍勢に残った者は京から下ってきた者ばかりでわずかであった。世間では(官軍の)追い返しと称され、古今追討使が派遣された時このようなことになってしまったのはいまだかつて聞いたことがない。もっとも悲しむべきことである。ただし今回の事はただ事ではない。だから訳もなく詳しく記さない。実際はどうであったのか尋ね知ろうと思う。

 

追討使の事、閭巷の説縦横す。但し或る者云はく、権亮(平維盛)駿河国に下着の節、一国の勢二千余騎〔目代(橘遠茂)を棟梁と為す〕を以て甲州に寄せしむる処、皆率い入る後路を塞ぎ、樹下巌腹に歩兵を隠し置き、皆悉くこれを射取らしむ。異様の下人少々の外、敢へて帰る者なし。その後謀反の輩〔頼朝か、武田か〕牒状を送る。その状詳しく聞かず。件の子細糺問の後、首を切らしむ〔殺害の条、甘心の輩あらずなど〕。その後頼朝襲来の由風聞す。彼らの勢巨万、追討使の勢敵対すべからず、仍つて引き返さんと欲する間、手越宿において館失火出で来〔扈従の者の中坂東の輩などこれを放つと云々〕、上下魂を失ふ間、或いは甲冑を棄て、或いは乗馬を知らずに逃げ帰り了んぬ。これ則ち東国の勢江州より皆悉く付くべき由、兼ねて支度する処、敢へて付かず。或いはその身参ると雖も、伴類・眷属なお伴はず。或いは形勢に随ひ逆徒に随ふなど、弥(いよいよ)官軍弱しと見ゆる由、各(おのおの)逐電し、残す所京下りの輩纔(わず)かなり。世を以て逐ひ帰えしと称す由、古今追討使を遣はす時、いまだこの例を聞かず。尤も悲しむべき事なり。但し今度の事只事にあらず。依つて由無く委(くわ)しく記さず、また定説を知り尋ぬべし。

 

 

ちょっと長かったですが、いかがでしょうか。

 

これらお三方の記述を見ると、『平家物語』や『吾妻鏡』の記述と微妙に異なることがわかります。

 

追討使の軍勢は東国の軍勢があまりにも多く対抗できなかったことから、態勢を立て直すために富士川から自発的に撤退しようとしていたことがうかがわれ、いわば戦略的撤退をしたというのが実際のところのようです。しかし、同時に東国追討使の士気が著しく下がっていた様や諸国から動員された兵員が逃亡するなど軍勢としてもはや統制が取れていなかったこともうかがわれます。

 

また、例の水鳥の話もこのころすでに人々のうわさとして広まっていて撤退のきっかけになったこともわかりますが、追討軍に上へ下への大混乱をきたしたのは水鳥ではなく、撤退途中の手越宿(今の静岡市手越)付近での火災によるもので、その火災は追討使の軍勢の中にいた坂東の武士が離反して引き起こしたと記されているのも興味深いところです。

 

 

 

さて、官軍がなぜこれほどまでの敗北を喫したのでしょうか。

言うまでもないことですが、官軍は朝廷の宣旨や太政官符まで受けたれっきとした正規軍です。その正規軍が満足に軍勢を集められずに撤退を余儀なくされたのです。この頃の朝廷の威信がそこまで失墜していたとも思われません。九条兼実も吉田経房も「ただごとではない」と記しているように、いくら東国の源氏勢が強大であっても、ここまで朝廷の正規軍が東国の軍勢にひけを取り、まるで空中分解してしまうような状態になったでしょうか。

 

これについて、従来は追討軍の構成が「駆武者(かり-むしゃ)」と呼ばれる諸国で徴発された軍兵主体であったために著しくその士気を欠いていたからと説明されます。ところがこの「駆武者」は平家に限らず当時の軍勢構成で主体となるものであって、のちに源氏勢が西国へ進撃する際にも「駆武者」動員が行われていたことが示されています(川合康氏『源平合戦の虚像を剥ぐ』1996年など)。確かに半ば強制的に動員された軍兵の士気が当初からあまり高くないのはわかりますが、その理由ばかりでもなさそうです。

 

そこで手がかりとなる記述が『吉記』のなかにあります。

“これ則ち東国の勢江州より皆悉く付くべき由、兼ねて支度する処、敢へて付かず”というところです。東国の勢、つまり頼朝方か甲斐源氏方が近江国から東の諸国に対して味方するように働きかけていたというのです。

 

東国の軍勢が日に日に増えて関東をほぼ掌握したというウワサが都ばかりでなく、思いのほか全国各地に伝わっていて、かねてより平家主導の中央の施政に不満を高めていた勢力などが同調を示したために、この源氏方の働きかけは功を奏し、追討使は思うように軍勢を集められず、集まった軍兵も士気がより低かったのではないでしょうか。

 

さらに、これはあくまで推測に過ぎませんが、『平家物語』で語られる誇張された東国の武士の荒々しさや勇猛さといったものに似たような話が各地にウワサとして広がっていた可能性もあります。

 

もっとも追討軍の中には東国の武士も含まれており、平家の者が大番役として上京してくる東国の武士のことを知らないはずはありませんが、他所の地方などで普段東国の武士と関わりがない者を動揺させるには十分だったのではないでしょうか。つまり、東国勢は戦前に巧みな情報戦を展開していたと捉えることができるのです。

 

他の敗北原因としては、富士川で対陣する前に行なわれた前哨戦・鉢田の戦いで駿河目代率いる2000~3000余騎の軍勢が壊滅するという無残な結果も大きな要因として挙げられます。それまで東国の軍勢は強いとウワサされていたのが、これによって実証された格好となってしまったからです。

 

 

ちなみに、これは余談ですが、鉢田の戦いにおいて甲斐源氏軍は伏兵を用いたことが『吉記』に記されています。従来、この治承・寿永の乱の頃の戦いは弓射騎兵(弓騎兵)中心の一騎打ち戦法が主流とされていますが、このように伏兵を配して歩兵での戦いも行われていたということはもっとこの時代の戦法は多様化していたのではないかと思われます。

 

なぜ一騎打ち戦法が主流とする見方になってしまったのかは『平家物語』や蒙古襲来の時の竹崎季長の逸話などが多分に影響していると思われますが、これは物語が一騎打ちをクローズアップして描くことによって、個々の武士の華々しい活躍を強調しようとした演出のようなものだったのが、後世の人々はこれを戦の勝敗を決する重要なものと誤解してしまったからなのではないでしょうか。

(もう少し詳しくツッコミたいところですが、沼りそうなのでこのへんで…笑)

 

 

ちょっと長くなってきたので、ここで一旦切りたいと思います。

次回は実際の富士川の戦い(後半)の話。富士川の戦いの行われた場所とその場所をふまえて『吾妻鏡』の記述の虚実をお話ししたいと思いますニコニコ

 

それでは今回も最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

 

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(参考)

高橋貞一 『訓読玉葉 第4巻 巻第二十七~巻第三十五』 高科書店 1989年

増補史料大成刊行会編 『増補史料大成 第28巻 山槐記 3』 臨川書店 1989年 

高橋秀樹編『新訂 吉記 本文編二 治承四年-寿永元年』 和泉書院  2004年

川合康 『源平合戦の虚像を剥ぐ』 講談社選書メチエ72 講談社 1996年