義経の参陣【治承・寿永の乱 vol.53】 | ひとり灯(ともしび)のもとに文をひろげて

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治承・寿永の乱、第53弾になります。

これまでの話はこちらから。

 

 

 

治承4年(1180年)10月21日(『吾妻鏡』)

頼朝は富士川の戦いの勝利に乗じて平家軍を追撃し、そのまま西進して上洛を果たすよう全軍に命じました。ところがそんな頼朝を諌める武士がいます。三浦義澄(みうら-よしずみ)、千葉常胤(ちば-つねたね)、上総広常(かずさ-ひろつね)の3名でした。彼らは、

 

「常陸国(今の茨城県の大部分)の佐竹義政、佐竹秀義らは数百の軍勢を擁しながらいまだ(頼朝に)帰伏しておりません。とりわけ、秀義の父である佐竹隆義は在京して平家に従っており、他の佐竹の者も(平家の権威を笠に着て)おごり高ぶっております。しからばまずこれら佐竹の者どもを討ち、その後関西へ至るのがよろしいかと思います」

 

と、まずは自分たちの足元を固めることを優先して後顧の憂いを取り除くことを勧めたのです。

 

この三浦義澄、千葉常胤、上総広常といえば当時の頼朝勢では宿将ともいえる人物たちで、頼朝にとって彼らの発言は決して蔑ろにできないものがありました。

 

また、千葉常胤にとって佐竹氏は不倶戴天の敵と言っていいほど、因縁がありました。これはまた改めてお話しようと思いますが、もともと千葉常重ちば-つねしげ:常胤の父)が開拓した荘園で、伊勢神宮に寄進することで御厨みくりや:伊勢神宮・賀茂神社領である荘園)としていた相馬御厨(そうま-みくりや)を紆余曲折あって、当時は佐竹氏にほとんど横領されてしまっていたため、佐竹氏の討伐は悲願でもありました。

 

治承・寿永の乱はこのように在地の対立が大きく作用していて、敵方が平家方ならこちらは源家(河内源氏)方に、またその逆の場合もあり、はたまた同じ源家(河内源氏)であっても場合によっては敵対していた(例:義仲の勢力と頼朝の勢力)こともあって、単純に平家と河内源氏が争ったわけではないことがわかります。

(佐竹氏は河内源氏義光流で甲斐源氏などと同族になります)

 

 

頼朝はこの進言を受け入れ、西進することをやめて関東に留まることにし、目下の所は佐竹氏の討伐ということで、それに向けて動き出したのです。

 

これについては、当初より頼朝は西進するつもりはなかったとか、甲斐源氏との無用の衝突を避けたからなど様々な見方がありますが、いずれにしてもこれ以降頼朝はしばらく関東での足場確保に専念することになります。

 

 

さて、富士川の戦いに勝利した翌日、10月21日。黄瀬川宿に陣を張っていた頼朝のもとに一人の若者がやってきました。

 

彼は陣営の宿所の傍らにたたずみ、頼朝に会いたい旨を申し出ましたが、頼朝方の将である土肥実平(どい/どひ-さねひら)、土屋宗遠(つちや-むねとお)、岡崎義実(おかざき-よしざね)らはこれを怪しんで取り次ごうとはしませんでした。

 

やがて時を移して、頼朝は自分に会いたがっている者がいることを聞き及びます。その者の年格好から奥州の九郎かと思えて、すぐにこちらへ通すよう実平に命じました。

 

頼朝がその若者と対面してみると、それは末弟の義経でした。二人はこれまでの話をして互いに涙を流したといいます。頼朝はかつて先祖である源義家みなもと-の-よしいえ:八幡太郎)が奥州にて清原氏と戦った後三年の役(1083年~1087年)のおり、義家の弟であった源義光みなもと-の-よしみつ:新羅三郎)は左兵衛尉(さひょうえ-の-じょう)の官職を辞して京都から奥州へ駆けつけ、ともに清原氏を滅ぼした吉例(良い先例)を引き合いに出して喜びました。

 

この義経は去る平治2年1月(1160年2月)はまだ産衣を着ていましたが、父・義朝が平治の乱で敗死したのちは、継父の一条長成いちじょう-ながなり、大蔵卿)のもとで育てられ、のちに出家するため鞍馬山へ入りましたが、成人する頃になるとしきりに父・義朝の敵を討ちたいと思うようになり、自ら元服して平泉ひらいずみ:今の岩手県西磐井郡平泉町)に本拠を置く藤原秀衡(ふじわら-の-ひでひら)の猛勢をたのみに奥州へ向かいました。そしてそこでしばらく時を過ごすことになります。

 

やがて兄・頼朝が挙兵したことを聞き、義経も兄のもとへ駆けつけようとしますが、藤原秀衡は強く引き留めたために秘かに館を抜け出して奥州を立ったのです。

秀衡は義経を惜しんで留め置こうとしていたのですが、もはやその術を失ってしまい、勇士である佐藤継信(つぐのぶ)・忠信(ただのぶ)の兄弟を義経の供に追ってつけさせたのでした。

 

 

以上の話は『吾妻鏡』に基づく頼朝と義経の対面の話ですが、『平家物語(延慶本)』ではこの時の頼朝と義経二人の会話が記されています。

 

頼朝:

この20余年の間、名前は聞いていたがその顔を見たことはなかったから、どのようにして会おうかと思っていたところに、まっさきに駆けつけてきてくれた。故頭殿(義朝)の生まれ変わりかと思えて、頼もしく思う。かの項羽こうう:中国の秦末期の将)は沛公はいこう:劉邦〔りゅう-ほう〕中国前漢王朝初代皇帝)を得て秦王朝を滅ぼすことができたように、今頼朝は次将を得た。(これで)どうして平家を誅伐して亡き父の本意を遂げられないことがあろうか。

して、この度の合戦の事を聞いて(奥州の)藤原秀衡はなんと申していた?

 

 

義経:

大変感じ入っておりました。(後白河院が)新大納言(藤原成親〔ふじわら-の-なりちか〕以下の近臣を失い、三条宮(以仁王)や源三位入道(源頼政)が討たれた際には、『どのように兵衛佐殿(頼朝)は聞かれておられるだろうか・・・』と度々申しておりました。去る承安四年(1174年)の春ごろより都を出て奥州へ向かったのですが、秀衡は(河内源氏との)昔の好(よしみ)を忘れず、なにかにつけて憐れみの情をかけてくださいました。このように参上するにあたっても、甲冑(鎧兜)、弓箭(弓矢)、馬、鞍、従者にいたるまですべて用意してくださいました。でなければどうして郎等一人をも供に連れて来れましょうか。十余年(6年ですが出典のまま)ほど彼(秀衡)のもとで受けた好意をどのようにして報い尽くそうかとも思っております。

 

 

以上ですが、この会話で興味深いのは、頼朝が“秀衡はなんと申していた?”と義経に聞いているところかと思います。

当時、奥州藤原氏の動向は不透明で、平家とも協調関係にあっただけに、万が一頼朝に敵対するようなことがあっては関東が危うくなってしまう恐れがありました。さらにこの時討伐しようとしていた佐竹氏は奥州藤原氏と血縁的な繋がりがあったこともあって、頼朝は奥州藤原氏の動向をかなり意識していたようです。

 

 

ということで今回はここまでです。

 

この頼朝と義経が対面したシーンは『平家物語』のなかでも名シーンとされている部分で、とても有名な話です(聞いたことがある方も多いはず)

かの日本画家の大家である安田靫彦(1884年~1978年)も『黄瀬川陣』と題した六曲一双の屏風絵を残しています。

(『黄瀬川陣』は個人的にとても好きな絵です^^)

 

静岡県駿東郡(すんとう-ぐん)清水町(しみず-ちょう)にある八幡神社の境内には「対面石」として、この時頼朝と義経が腰をかけたとされる石があります。

 

 

画面が薄暗くてすみませんあせる

(この写真撮影時、夏でやたら付近に蚊が多くて、刺されないように動きながらサッと写真撮ったのを思い出しました)

 

それにしてもこの石・・・いかにもとってつけたような・・・。

あ、いえ、すみません。これがその対面石ですニコニコ

 

でもこの対面石がある八幡神社のすぐ近くを黄瀬川が流れ、黄瀬川宿があったとされる場所にも近いので、ひょっとすると、この八幡神社は頼朝の陣所跡に建てられたものかもしれません。

 

 

では、今回も最後までお読みいただきありがとうございましたルンルン

 

 

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(参考)

上杉和彦 『戦争の日本史6 源平の争乱』 吉川弘文館 2007年

川合 康 『日本中世の歴史3 源平の内乱と公武政権』 吉川弘文館 2009年

黒板勝美編 『新訂増補 国史大系 (普及版) 吾妻鏡 第一』 吉川弘文館 1968年

松尾葦江編 『校訂 延慶本平家物語(五)』 汲古書院 2004年

麻原美子・小井土守敏・佐藤智広編 『長門本平家物語 三』 勉誠出版 2005年