鎌倉政権の出発点 【治承・寿永の乱 vol.26】 | ひとり灯(ともしび)のもとに文をひろげて

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今回は治承・寿永の乱第26段ですニコニコ
これまでのお話はこちらの一覧からどうぞルンルン
 
 
 
頼朝山木兼隆を討った直後の治承4年(1180年)8月19日。この日、頼朝は早速、とある文書(もんじょ)を発給はっきゅう:文書を発行して与えること)したことが『吾妻鏡』に記されています。

その文書の内容とは、史大夫知親(し-の-たいふ-ともちか)という人物が行っている伊豆国・蒲屋御厨(かばや-の-みくりや)の管理を停止して、以後は知親に代わって頼朝がそこの管理をするけれども、これは親王(以仁王)がお認めになったことであるから、住民は安心しなさいというものでした。

これがその文書です。


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下す 蒲屋御厨住民等の所

 早く史大夫知親が奉行を停止すべき事

右、東国に至りては、諸国一同庄公皆、御沙汰なすべきの旨、親王宣旨の状に明鏡なり。住民等その旨を存じ、安堵すべきものなり。よつて仰する所、ことさらにもって下す。

治承四年八月十九日

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これは下文(くだし-ぶみ)と呼ばれる文書で、鎌倉時代には本領安堵(ほんりょう-あんど:領地の保証新恩給与(しん-おん-きゅうよ:新しい領地の授与をする際に使われた文書です。いわばこうした文書(下文)の発給こそが鎌倉政権が行っている政治の根本でした。
 
 
さてそこで、この『吾妻鏡』に載っている文書(下文)は、いくつか決定的な誤りがあるため、従来は鎌倉中期の『吾妻鏡』編者がそれらしい文書を載せたニセモノで、信ぴょう性は薄いとみなされてきました。


ところが、歴史学者の本郷和人先生は逆にこれはホンモノで、その理由はむしろそのいくつか決定的な誤りがあるからこそとおっしゃいます。


この文書のいくつかの決定的な誤りというのは、まず一つは”親王宣旨”というのがおかしいという点。「宣旨」とは天皇の命令書のことなので、親王の場合は「令旨」にならなければなりません。
 
もう一つは、文書最後の「ことさらに以(もっ)て下(くだ)す」という言い回しがおかしいという点。単純に「ことさらに下す」という言い回しで終わる文書はあるけれど、「ことさらに以て下す」なんて言い回して終わる文書は他に例を見ず、そもそもこれが「ことさらに下す」の誤りだったとしても、こうした形式の文書の終わり方としては妥当ではないというのです。


そこで、この文書を作成した人(奉行)は誰かというと、藤原邦通(ふじわら-の-くにみち)ということになっています。
邦通はvol.21でもお話ししましたが、都で“放遊”にふけっていたところを、その知識と芸達者ぶりを買われて安達盛長
(あだち-もりなが)の推挙で頼朝の右筆ゆうひつ:武士の秘書)となった人物です。

そこで考えられるのは、邦通は都の官僚ではなかったために、こうした文書の書式を知らず、かすかに知っている知識でそれっぽい文書を作成したのではないかということです。
 
つまり、本郷先生のご指摘は、この当時の頼朝の周囲にいた者で、”文”に通じた者は邦通ぐらいしかいなかったため、彼に文書を書かせてみたが、その邦通もこうした文書の知識に乏しく、作成に未熟であったため、変な言い回しの文書ができあがってしまったとされるのです(※1)。
 

確かに、これまで言われているような『吾妻鏡』の編者がそれらしい文書を掲載したとする考えは少し奇妙に感じます。
 
なぜなら、『吾妻鏡』が編まれた鎌倉中期にもなると、鎌倉政権内に文書の書式を心得ている者はかなりおり、『吾妻鏡』の編集者の中にもそういった心得を持つ者がいたとしてもおかしくありません。それなのにこうした変な言い回しの文書が掲載されているのは不思議だからです。
 
むしろ『吾妻鏡』の編者たちはこの文書のおかしい点に気付いていたはずで、正しい形に直すこともできたはずなのにそのまま掲載したのは・・・。なぜなんでしょう。
 
 
私が思うに、この文書は本郷先生がおっしゃるように‟ホンモノ”で、鎌倉政権にとって記念すべき第1号の文書、たとえ書式や諸々の言い回しが誤っていたとしても最初に発給された文書として『吾妻鏡』編者たちが忠実に掲載したものだったからなのではないのでしょうか。
 
この文書が載る記事(『吾妻鏡』治承四年八月十九日条)にこのようなことが書いてあります。
 
‟これ関東の事、施行の始めなり”
(これが関東における施政の始めである)
 
つまり、この文書の発給が頼朝(鎌倉政権)が初めて行った政治だったということです。
 
 
この一見なんの変哲もない文書ですが、鎌倉政権の由緒を記した『吾妻鏡』に、そのまま掲載された意味は意外にも大きかったのです。
 
 
ちなみに、頼朝の発給する下文(くだし-ぶみ)は、こののちどんどん洗練されていきます。
都で実務官僚をしていた下級貴族が鎌倉へやってくるなど、次第に‟文”の人材が頼朝の周りに集まりだしたためです。
 
そういう点を考慮に入れれば、今回お話しした蒲屋御厨への下文は、のちに鎌倉政権へ繋がる最初の下文の形であって、頼朝たちが文書による政治をしだした原点であると見ることができますキラキラ
もっと言えば、ここが鎌倉政権の出発点だったと言えそうですウインク
 
 
さて、今回はなんだかアカデミックな話になってしまいましたが、最後までお読みくださってありがとうございました音符
次回はいよいよ頼朝が大庭景親と対峙、激突します。
 
それではっニコニコバイバイ
 
 
 
※1・・・本郷和人『武力による政治の誕生』シリーズ選書 日本中世史1 講談社 2010年 p141、142