頼朝の挙兵準備 【治承・寿永の乱 vol.21】 | ひとり灯(ともしび)のもとに文をひろげて

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治承・寿永の乱、21回目ですルンルン

前回までの話はこちらからどうぞニコニコ

 

 

 

大庭景親(おおば-かげちか)の帰国を受けて、頼朝時政はいよいよ具体的な挙兵の段取りについて話し合い、急ピッチで準備を開始しました。そして、挙兵のまず最初のターゲットととして伊豆国の目代(もくだい:国司の代行)山木兼隆(やまき-かねたか)に定めました。

 

 

この山木兼隆という人は、少し変わった経歴の持ち主でして、もとは都で右衛門尉(うえもん-の-じょう、内裏の門の警備を司る役人)検非違使(けびいし、都の治安維持につとめる役人)などを務めてバリバリ都で活躍する京武者の一人だったんですが、治承3年(1179年)1月に、父である平信兼(たいら-の-のぶかね)になぜか訴えられ、右衛門尉も検非違使も解官(クビ)されてしまったんです。(※1)

 

でも、治承4年(1180年)の5月、伊豆国の知行国主(ちぎょうこくしゅ、※2)であった源頼政(みなもと-の-よりまさ)以仁王の乱で討死したのに伴って、兼隆の検非違使時代に上司だった平時忠(たいら-の-ときただ)が新たな伊豆国の知行国主となったのに伴って、時忠目代として抜擢されたのです。

 

さらに兼隆の血筋は平家と同じ伊勢平氏の流れをくんでいるため、兼隆は名実ともに伊豆国での平家政権による政策の実行者と見なされていました(※3)

 

つまり、この兼隆を討てば平家による政治体制を否定することが大いにアピールできるのと同時に、大庭景親が攻めてきた場合、その先手となるだろう兼隆を倒してしまえば、出鼻をくじいて機先を制することにもなります。

 

 

なお、この兼隆には伊豆国の豪族で、堤信遠(つつみ-のぶとお)という人物が兼隆後見役として補佐についていたことが知られていますが、この信遠時政とは所領が近いことなどから、かねてより競合関係にあって対立していた間柄であったと言われ、この機に乗じて時政はライバルである信遠を討とうと画策したことも、兼隆がターゲットとされた理由の一つとも考えられているようです(※4)

 

 

少しわかりにくいと思いましたので、図にしてみました。(かえってややこしいかな・・・)

 

 

 

 

さて、山木兼隆の館を襲撃するに先立って、頼朝時政兼隆の館周辺の地形や館の様子を調べようと、頼朝の側に仕える藤原邦通(ふじわら-くにみち)兼隆の館へと遣わしました。

 

 

『吾妻鏡』(※5)によれば、藤原邦通はかつて「洛陽放遊の客(都で活動する遊び人)」であったのを頼朝の腹心・安達盛長(あだち-もりなが)が頼朝の右筆(ゆうひつ:今で言えば秘書)にと推挙した者らしく、遊び人とは言っても今で言うそれとは違い、文芸や管弦(音楽)、絵画などの芸術にも長けていた相当な文化人であったようです。

 

そんなことから邦通は酒宴郢曲(しゅえん-えいきょく:簡単に言えば、飲んで歌っての宴会)の際に兼隆にその才能を気に入られて、数日間兼隆の館に逗留することができ、その間に兼隆の館をはじめその周辺の地形なども克明に絵図に描き上げることができたそうです。

 

さらに、その絵図を見た頼朝時政たちには実際にその場所を上から覗いているようであったといいますから、邦通は相当芸達者な人だったようです。もちろん頼朝時政がその絵図をもとに兵の置く場所や進路などを指して作戦を立てるのに役立ったのは言うまでもありません。

 

 

こうして頼朝時政は挙兵へ向けて着々と準備をしていったのでした。

 

 

 

それでは今回はここまでです。

最後まで読んでいただきありがとうございましたニコニコ

 

 

 

 

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注)

※1・・・『吾妻鏡』には、兼隆は平信兼の訴えで伊豆国へ配流されたことになっています。ですが、兼隆が解官されたことを記す『山槐記』には流罪になったとまで記されておらず、いつ伊豆国へ配流になったのか疑問であり、もしくは伊豆国への流罪自体『吾妻鏡』の脚色である可能性もあるなど様々なことが考えられ、不明な点がある部分です。

 

※2・・・知行国主とは、知行国において国司推薦権と官物(租税など)収得権を持った者。ということなんですが、ものすごいザックリ言ってしまえばその国のトップ、事実上の支配者です。

 

※3・・・兼隆は確かに伊勢平氏ですが、清盛の家系(平家)とはそれほど深い関係ではなかったと思われます。『吾妻鏡』などでは“清盛の権威によって、威光を郡郷に振りかざした”と記述されますが、兼隆が伊豆国目代になれたのは、あくまで平時忠のとりなしであったと思われます。

 

※4・・・川合康『源平の内乱と公武政権』日本中世の歴史3 吉川弘文館 2009年 p.103

 
※5・・・『吾妻鏡』治承四年八月四日条