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019|まる・いち・きゅう

丸い地球をまわりながら考えていることの記録

本当にたくさんの人に支えられたこの数カ月。昨晩の審査会を経て、無事に博士号がもらえることになりました。分野は科学技術史、専門は核のグローバル史です。今後は迷いなくピースボートにフルタイム復帰し、世界を駆け巡ります。市民社会の役割を痛感する今日この頃です。人の苦しみの味方になったり、大きな力に隠されてしまうようなものに光をあてられるようなたしかな言論を、みなさんと一緒につくっていきたいです。しなやかに、諦めず、たたかいます。フルタイムでの研究職のようにはいかないでしょうが、研究・教育も続けます。ご縁をいただき今学期は早速早稲田大学の文化構想学部で授業を受け持ち、学生とともに毎週核について考えています。これからは、これまで以上に色々なことにチャレンジしたいです。みなさんどうぞよろしくお願いします。

 

 

追記(2022/8/7)

遠路はるばる博士課程修了証書が郵送で届いた😭思ったより大きい!私が博士になれるかずっと心配してくださってたみなさま、ありがとうございました。

このわけがわからなかった一年を振り返っていたら、なぜか8歳の自分を思い出した。

自分の持てる力をすべて使って何かを吸収して前に進もうとしていた時間があったとしたら、間違いなくあの1年半だ。

小学2年生の夏、家族でフランスに住むことになった。「海外赴任」とかいうきらびやかなものではない。埼玉県の公立高校で国語の教員をやっていた父親が、文部省の外国教育施設日本語指導教員派遣事業(REXプログラム)に採用されて、1年半の任期でフランスの現地の公立校で国語を教えることになった。まわりの「赴任組」は広くて近代的なアパートに住んでいたけれど、私たちの住まいはパリの外れのエレベータの扉がじゃばらのおんぼろアパート。父は事前研修でフランス語をかじったようだがおぼつかず、母は「家族は一緒」のモットーのもとに勢いで渡仏に同意しただけ。会社のサポートがあるわけでもなく、言語面で頼れる人はいなかった。ちなみに当時弟は3歳。

父の勤務先に日本語が話せる人がひとりいて、到着すると最低限のお世話はしてくれた。その人の案内で仮住まいである父の勤務先の最上階にある寮に到着した瞬間、手前に引いてあけるタイプの窓ガラスの角に思いっきり頭を打ち、大きなたんこぶができた。それが到着初日について覚えている唯一のこと。

紹介してもらった日本人の中古車ディーラーの人から父はルノーの小さな車を買った。「日本の方は日産とかを好まれますけどね」と驚かれていた。ちなみにその車は本当にポンコツで、一年半の滞在の後半はたびたびオーバーヒートをおこし、高速で小一時間とまって冷やさないといけないことがよくあった(トイレは適当に済ませることができるとこの時知った)。それなのに帰国する時に他の人がよくやっているように車の窓に「売ってます」っていう貼り紙を出しておいたら、売れたらしい。

日本人学校はパリ市内から1時間くらいバスに乗らないといけなかった。「通学時間はなるべく短く」が畠山家の信念だったので、日本人学校は早々に選択肢から外された。近くの学校をふたつほどまわったのち、私の直感が尊重され、わたしがいいと思ったほうに通うことになった。フランス語がまったくできないので、ひとつ学年をおとして新学期から通うことになった。

登校初日、大人に覚えさせられた「私の名前は澄子です。日本から来ました。」だけを暗記して、みんなの前であいさつをした。その直後にはじまった授業ではとりあえず黒板に書かれたことをノートに写そうと思ったけれど、黒板に書かれている文字が文字と認識できなかった。はじめましてアルファベット。

休憩時間になったら弟が幼稚園エリアで猛烈に泣いていた。幼稚園エリアと小学校エリアは丈の低いフェンスでしきられているが、あまりにも泣いていたので弟のところにいくことが許された。「大丈夫だよ」とか言った気もするが、覚えていない。

私は私で女の子3人ほどに囲まれて、でも何を言われているのかさっぱりだった。しばらくすると明らかに何か質問している感じで3人のうちのひとりが7本指を私の前に出した。やっぱりわからなくて曖昧に首をかしげていたら、その指の本数が一本ずつ減っていった。3本まで減ったところでみんなが「ありえないか」っていう顔をして笑って、その瞬間に私はわかった。「聞かれているのは年齢だ!」。8本指を出した。そうしたらみんながすごく喜んで納得した顔をしてくれて、私は心の底から「伝わった!!!!」って思った。わかりあう歓びを知ったあの瞬間を私は忘れない。

最初の数日の学校生活がどうやって成り立っていたのか、いまだに不思議な部分が多い。登校初日、学校で何が起きていたかも宿題が出たかも、翌日の持ち物が何かもわからなかった。家で私と父がやったことは、教科書を数ページ分ノートに書き写すことだった。父親が下手な筆記体で、1行とばしで教科書を書き写し、辞書をひきながらところどころ言葉の意味を書いてくれた。私はその下に、見よう見まねで文字を書いた。それを何日か続けた気がする。そのうち文字と単語の切れ目がわかるようになっていって、そのうち父の手助けはいらなくなった。何をしていいかわからないときはとにかく何でもいいから手と頭を動かすといい。何か発見があるから。

一家の中で私だけが、明らかに、ものすごいスピードで、言語を習得していった。カトリックの私立学校だったのだが、授業中にちょくちょく別室に連れていかれ、シスターがマンツーマンでフランス語のレッスンをしてくれたあの制度はすごい。シスターの教授法はきわめて単純で、言葉カードや絵本でひたすら日常でよく使う単語を覚えさせていく。間違えた単語は何度も何度も反復した。単語がわかれば言葉はある程度わかるようになることを潜在的に知ったのはこの時かもしれない。日本の学校でも日本語が母語でない児童のためのサポートが充実したらいいと心から思っている。ほんの少しの手助けで、子どもはものすごい勢いで伸びる。

半年もたつと、読み書きもリスニングもどう考えても私が家族のだれよりもできるようになっていた。父も母も言葉が通じないことをストレスにするタイプの人間ではないし、言葉が通じないなりのコミュニケーションを積極的にとれるタイプだったけれど、どうしても伝わらないことやわからないことがある。そういう時は私がコミュニケーションを仲介した。とはいえ小学生の語彙力なわけで、大した会話ができていたとは思えない。日本や海外で、暮らしている土地の言葉がわからない親を連れた子どもをみると、当時の自分とちょっとだけ重なる。

誕生日には友達を招待してパーティーをやるのがどうやら習わしで、私も何人かのパーティーに呼ばれた。渡仏から9か月ほどしてやってきた私の誕生日は悩ましかった。うちは明らかにみんなを招待できるほど広くなかった。近くのマクドナルドで友達を呼んでの誕生日会が開けることをどのように知ったのかは忘れたけれど、母とふたりでマクドナルドにいって、私が「この日にお誕生日会をやりたいのでお願いします」と頼んだ。店員さんはどう思っていただろう。誕生日会はうまくいったけど。

日本でも習っていたバレエをフランスでも続けることにしたのだけど、クラス編成の関係で、なぜか私がクラスの中で結構できるほうになってしまった。別に大して上手でもなかったのに。先生が、できる子は前列にポジション指定するタイプだったので、いつの間にかひがまれていたらしく、ある時ロッカーで着替えているときに隣の部屋で悪口を言われていた。悪口の中身はまったくわからなかったけど、私が悪口を言われていることははっきりわかった。言葉が通じなくても悪口を言っていることは通じてしまうと知った。以来、そういう形で人を傷つけたくないと思ってきた。

この1年、コロナの影響を真正面からうけた業界にかかわる人間として、言葉が通じないような、どうしたら目の前の状況を打開できるのかわからないような、とにかく先の見えない場面に多く直面した。その状態は今も続いていて、これはもしかしたらコロナと少し距離をとれたり、コロナをいかせるビジネスにかかわる人たちには想像しづらい世界なのかもしれない。当然一方ではもっと苦しい状況におかれている人もいる。いずれにせよそのような中で、何をしていいかわからないから思考を停止し、できることさえもやめてしまいたくなったこともある。人とのコミュニケーションを諦めかけた時もあったし、諦めてしまったこともあった。それでも年の瀬を迎えたいま、来年に向けて自分を改めて叱咤しようと思っている。8歳の自分があれだけ生きていくために恥を捨てて必死に動けたのだから、大人になって知識も経験も仲間も増えた自分はもっとできるはず。この時養った想像力や人に頼る力で、乗り越えていきたいと。

自分は大丈夫だと思っていた。この2か月ほど、武漢に始まり、アジア各国にCOVID-19が広がっていく様子を毎日ニュースで追っていた。症状や感染経路について様々な機関や専門家の発信する情報をかなり初期から読み込んできた。各国で様々な対応がなされる様子をみながら、こういうことをすればいいんだなーとか、こういうことはしないほうがいいんだなーとか、自分なりに考えてきた。遠くアメリカらから日本の対応をみながら、憤ったり感心したりしていた。

それでもダメなのだ。先週の今頃まではすべてが平常運転だったこの国が、ものすごい速さでCOVID-19の感染の波にのみこまれていくその渦中にいると、平常心がうまく保てない。

この一週間で、見える景色が180度変わってしまった。この間の主な流れをまとめてみる。(詳細に関心のない人はとばしてほしい)

  • 3月10日(火):大学からの最初の通達。4月17日まで国内外問わず出張や学会などでどこかに行くことを禁止し、また学内での大規模な集会は避けるよう指示があった。今学期のどこかで授業をオンラインに切り替える可能性があるから教員は準備をするようにとも。
  • 3月11日(水):この週が一週間春休みだった私の大学。春休みが一週間延長となり、今学期の残りの授業はすべてオンラインで行われると学長からメール。春休みにキャンパスを離れた学生は戻らないように言われ、大学に残った生徒は15日までにキャンパスを離れるようにという指示。寮に残した荷物は大学のスタッフが郵送で各学生の自宅に送るとのこと(!)。この時点では博士課程後期の学生は通常通りでよいとのことだった(私はこのカテゴリ)。
    ※この日、トランプ大統領はヨーロッパ全土からの入国を、14日(金)をもって禁止することを発表。
  • 3月12日(木):前日の大学からの指示への反発なども受け、学生の退去の期日を17日に延長。アメリカからの渡航制限がかかっている国・地域の出身の学生は残れるような措置がとられるとの発表も。現在大学に関係のある理由でヨーロッパにいる大学関係者および学生について、帰国を希望する場合は大学の負担で帰国できることとなった。同時に、16日(月)と17日(火)に、大学がチャーターした飛行機がロンドンからニューヨークを飛ぶことが発表された。
  • 3月13日(金):ジムが15日(日)をもってしまることが決定。図書館は平日のみ9時~17時で開館するとのこと。
  • 3月15日(日):キャンパス内での研究活動をすべて直ちに停止するよう通達。理系の実験は即座に中止。動物実験や細胞培養など、最低限の人員だけシフトでまわし、実験自体は止めるようにとのこと。とにかく大学の建物を出入りする人をなるべく減らすようにとのこと。図書館も閉鎖が決定。
  • 3月16日(月):学部生3名のCOVID-19陽性が判明(2名は帰省済み、1名はフィラデルフィアの病院で治療中)。5月16日-18日で行われる予定だった卒業式は「バーチャル卒業式」になることが発表された。

大学外でもどんどんと対策が厳しくなっていく。多くの州で公立の学校が休校、スポーツの試合も中止。フィラデルフィアではすべてのレストランがテイクアウトかデリバリーのみでの営業となり、州全体で今晩からアルコールの販売が原則停止となる。隣のニュージャージー州では20時~5時までの外出を禁止する門限が設定された。私が3月~6月に参加予定だった学会はすべてキャンセルになった。

そのような中で、冷静にいようと思っても、こちらにひとり外国人として生活をしている身としては焦る心を落ち着けるのに精いっぱい。明日にでも家から一歩も出るなと言われるかもしれない。親しい友達が帰省・帰国した今、自分にとってのセーフティネットが脆弱になっている。自分が仮にCOVID-19に感染しても、重症化したり、ましてや命の危険につながったりする確率は極めて低いことは十分に知っている。それでも日々の生活の土台にしていたものが目の前でもぎとられていくとこんなにも不安になるのかと驚く。人間の心は不思議だ。私がパニックになる理由はひとつもない。それなのに、数分おきに入ってくるニュースに煽られる。

我に返り、一昨日時間をかけて自分の中で状況を整理した。すぐに金銭的に困窮しないこと、それから大学という後ろ盾があることがいかに恵まれているかを改めて自分に言い聞かせた。そして部屋を掃除・消毒し、家にある食べ物の在庫を確認し、普段はできないけれどこの間やってみたいことをリストアップした。仮に街が封鎖され家に閉じ込められるようなことがあっても大丈夫なように、そうなった時のことをシュミレーションして、孤独とどう共存できるか考えてみた。

まわりを見回せば、社会経済への影響は当然計り知れない。「計り知れない」なんていう薄っぺらい言葉では言い表せない。人が死ぬ。ここフィラデルフィアはアメリカの都市の中でも一番貧困率が高いと言われている。ゆえに、公立の学校は朝食と昼食を提供している。休校の間もなんとか食事だけは別の場所でピックアップできるような措置がとられたようだが、どうなるか。レストランの営業が制限された今、チップに頼るホールスタッフはどうなるのか。デリバリーやテイクアウトにすぐに対応できる店ばかりではない。対応できない小さな店はどうする?日雇いでスポーツの試合やコンサート、各種イベントを支える人は今一体どのような気持ちでいるのか。図書館もマクドナルドもスタバも閉まり、日中の居場所がなくなった人はどうなる。大西連さんの『すぐそばにある「貧困」』(ポプラ社/2015)が思い起こされる。あの本は日本の話だが、アメリカも同じ。というかもっとひどい。瀬戸際で日々一生懸命生きていた人たちが、一気に貧困の側に倒れてしまう。

もっとも心苦しいのはペンシルベニア大学の学生がいなくなることによる周辺コミュニティへの打撃だ。大学は残念ながら自分たちの職員や教員、学生を守ることしか考えない。1万人をこえる学生が一気にいなくなり、学内のすべてのイベントがキャンセルになる。周辺の店は大打撃だ。本当に多くの人が立ち行かなくなるかもしれないと思う。以前このあたりで生まれ育ったという人に話を聞いた。「大学は、自分たちの学生のために安全な環境を提供するだけを考えて、コミュニティ全体を安全に持続可能にしていくことは考えない」と。地元住民から土地を(安く)買い上げ、大学関係者に売ることで治安をよくしていくような方針もそうだ。暗くなってからのシャトルのサービスを大学関係者しか使えないのもそうだ。すぐそばで、ホームレスになり、貧困にあえぐ人がいながら、自分たちだけの安全をつくりあげている。今回もきっと大学は自分たちだけを守る。そして私はその一部。

とりあえず、近隣で感染のリスクが高くて外出できない人のために食料や医療品をピックアップして届けるボランティアに登録した。こんなことしかできないのか、とため息をつきながら。

 

本当はもう少し建設的なことを書きたいと思ったが、まずは今置かれている状況を綴り、素直な気持ちを吐露してみた。また定期的に発信できたらと思う。

"Bittersweet [ビタースイート] = ほろ苦い、つらくもあり楽しくもある"

プログラムを振り返ってこんな言葉を残してくれた参加者がいた。「あぁそうだなぁ」と思った。

「みんな違ってみんないい」は聞こえはいい。表面的になぞるだけの「みんな違ってみんないい」はきっと「スイート」だ。いっつもみんなが笑顔で集合写真をとっていられるようなそれは。

でも、一歩踏み込んだ「みんな違ってみんないい」は「ビタースイート」なのだと思う。しかもビター多め。

関わって6年目の地球大学特別プログラム。仕事柄ちょっとやそっとの「ありえない」はありえると思っているほうだが、それでもこんなにも濃いプログラムは二度とないのではないかと思う。

日米韓中台を含む8つの国・地域から集まった35名の若者と、原爆の日の広島・長崎、反日デモ真っただ中の釜山・ソウル、北朝鮮と韓国の間の非武装地帯(DMZ)を含む、「ホットすぎる」各地を訪れた。

「みんなで自由に意見を言い合おう。お互いを尊重しよう。」と言ってはみたけれど、お互いの知るアジアの過去は全然違い、意見は絶望的にすれ違った。もはや会話がかみ合わなかった。

グローバル人材とか地球市民とかいうけれど、自分たちが物事を見る視点はびっくりするほど自分たちが教えられてきた視点から抜け出せない。お互いの国籍を気にしないで意見を聞いているはずなのに、気が付いたらステレオタイプを押し付けている。「グローバル」と「ナショナル」の狭間で、揺れて揺れて、揺れた。

プログラム序盤、毎日のように誰かが涙を流し、こんなプログラムを提供している自分はなんなのかと悩んだ。

3か月たって振り返って、こうやればよかった、ああやればよかったと思う部分はある。だけど、結局は「ビター」と向き合うことでしか「スイート」にはたどりつけないのではないかとも思うに至っている。というか「ビター」を知るからこそ人は謙虚で優しくなれるのではないか。

「自分とは反対の意見を持つ人がどんな気持ちなのかを想像してみたことなんてなかった」という、とても正直なある参加者の感想が心に残っている。

私たちの多くは、分断の世界を非難しながらも、反対の意見を持つ人がどんな気持ちなのか本気で考えようとしていないのではないかと気づかされた。

こう言ってくれた参加者もいた。「国家間の対立は続く。だからこそ丁寧に過去のことを知る努力をしないといけない」。そして、「できないと言っていたら、何も変わらない」。

たくさんの感情を知り、たくさんの対立を乗り越え、乗り越えきれなかった意見の違いもあるけれど、それでもこれでもかというくらいに意見を交わし、自分たちにできることを考えた3週間でした。

関わってくださったすべてのみなさんに感謝します。

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2019年度地球大学特別プログラム報~8か国35名で取り組んだ「ともに築く平和で包摂的なアジア」~

https://peaceboat.org/30293.html

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フィラデルフィアは着実に冬に向かっています。ここのところ気温は一桁。ぼちぼち雪が降りそうです。そんな時期になってやっと、やっと落ち着いてこの夏に起きた様々な事を振り返っています。

まずは小林美晴さんと池田穂乃花 さんと取り組んだ「ヒロシマ・ナガサキを世界に伝える」について。8月の日本一周クルーズでのことです。

被爆者と一緒に世界に核兵器の非人道性を伝える「おりづるユース特使」の取り組みはこれまでもやってきました。今回は「被爆者なしで、通訳なしで、自分たちで世界に発信する」を目指すという、非常に野心的な、ピースボートとしても初の取り組みでした。
このような取り組みが直面する課題は、私が思うにふたつあります。

ひとつは当事者でない人間が語るとなった瞬間に、聞く側の「なぜなんのために私たちはその被害を知るべきなのか」という視点がシャープになること。国によって様々な語られ方をされている原爆投下という出来事の「いったい何を伝えたいのか」が被爆者の人が語る時よりも厳しく問われます。

もうひとつは自分が経験していないことをどのようにヒューマンストーリーとして伝えることができるかということ。目の前にいる被爆者が自分が体験したこととして語るから重みがある被爆証言。それを被爆者でない人間はどう伝えられるのか。

二人の文章には、それらへの糸口が書かれているように思います。ぜひ読んでみてください。

◆それでも伝えるには~加害と被害の先のヒロシマ・ナガサキ~(小林美晴さん)
https://hibakushaglobal.net/2019/11/07/miharu/
◆被爆者でなくても伝える~「被爆体験を継承する」ことへのヒント~(池田穂乃花さん)
https://hibakushaglobal.net/2019/11/07/honoka/
二人にアドバイスをするというよりも、二人と一緒に悩むことのほうが多かったですが、今回この挑戦に一緒に取り組んでくれた穂乃花ちゃんと美晴ちゃんには感謝をしています。また何か一緒にできたらと願うばかりです。
またこのプロジェクトをやるにあたってご支援してくださったおりづるの会のみなさま、本当にどうもありがとうございました。

先週のとある日、大学の公安部(Public Safety)から大学関係者全員に送られたメールを受け取った。内容は前々日の明け方に起きたレイプ事件について。暗い時間帯のエスコートサービスなど大学の持つ対策を紹介し、改めて類似の事件への注意を促すものだった。

公安部からのメールは今回が初めてではない。わりと治安がいい地域とはいえ、1か月に1回は強盗を知らせる通知がくる。レイプ事件も残念ながら初めてではない。しかし今回の事件では銃が使われた。女性がイベント会場から帰ろうと午前4時ごろに建物を出て道路の反対側に停めてあった車に乗り込んだところ、大柄の男性が銃で脅しながら車に乗り込んできてレイプしたという。事件の現場は大学のキャンパスから徒歩10分もかからないところだ。

銃で脅してレイプ。いったいどのような対抗手段があるのか。無理やり車を発進させても撃たれる可能性がある。明け方に片時もひとりにならないように気をつければいいのかもしれない。しかし学期末や年末ともなれば、イベントなどで盛り上がって午前様になってしまうことはある。どうしても先延ばしにできない仕事をしていたのかもしれない。彼女がひとりだったのは道路を渡るほんの数十秒だけ。何時間もひとりで暗い夜道を歩いたわけではない。圧倒的な無力感と恐怖を感じる。

ペンシルベニア州は銃規制が緩い。大学への銃の持ち込みこそ禁止されているが、家や職場、車に銃を置くことは許される。今回のような事件の危険性に常に晒されていることを思い知る。加えて、自分も銃を持っていると思われているかもしれないことは、これまでも夜道を歩くたびに感じてきた。これもまた怖いことだ。

2018年を振り返った時、印象に残るニュースのひとつに3月の「March For Our Lives(命のための行進)」がある。米フロリダ州パークランドで起きた銃乱射事件を受けて、17人が犠牲になったマージョリー・ストーンマン・ダグラス高校の生徒たちが銃規制を求めてデモを呼び掛けた。これが全国に広がり、セレブも数多く支持を表明した。

「身を守るために銃が必要だと聞かされてきた。でも銃で友達は死んだ。銃は人の命を守らない。」高校生らが発信したメッセージは、「自衛のための銃」という合衆国憲法にも書かれた価値観であり権利を真っ向から否定した。個人の自衛のためには銃、国家の安全保障のためには核…力でもってして治安を維持しようとするアメリカに新しい風が吹きつつあると思いたい。

全米ライフル協会の力は大きく、そう簡単にアメリカ社会が変わっていくとは思わない。しかし、今回のような事件の度に感じる恐怖を、きちんと声にして伝えていくことが大事なのだと思う。
 

朝ご飯を食べながら携帯のアプリでNHKのラジオニュースを聞くのが日課だ。こちらの朝は日本の夜。19時や21時のニュースを聞きながら、日本の話題をチェックする。

 

今朝取り上げられていたのは東京医科大に端を発した一連の不正入試の話。東京医科大の入試で女子受験生の得点を一律減点していたという話を初めて聞いた時には驚いた。しかも同大学を卒業した女性医師が結婚や出産を理由に離職すれば系列の病院で医師が不足する恐れがあったからだという。

 

男女が同じように働き続けていける環境づくりは難しい。私も前職(財団)や現職(NGOおよび大学)で配偶者をもち親となった同僚がいたし、いる。まだまだ日本社会、いや、アメリカ社会でも、制度的な支援が追い付いていない。結局「鉄の女」となって頑張るしか仕事を続ける道がないのが多くの人にとっての現状だろう。残った社員や職員が過重労働になる現場もあると思う。しかしこの現状に対して「では女性は社会から後退してください」と言ってしまったら元も子もない。多少苦しいフェーズがあっても次の世代が生きていきやすい制度を整えるのが、社会が成熟していくということではなかったか。

 

私はこの問題を、単に女性の社会進出や男女の機会均等の話ではなく、「多様な人材に社会で活躍してもらうことの重要性」に関する話だと思っている。その意味で、一連の調査で露になってきた性別や年齢を理由とした減点は許せない。報道によると2浪以上は不利になるような措置をとっていた大学もあるようだが、なぜ浪人したかの理由も聞かずに減点するとは。ボランティア活動に従事していた2年間だったかもしれない。身内の介護をしていたかもしれない。どちらも医師として大切な視点を養う機会になるだろう。

 

しかし、加点や減点がゼロになればいいという問題ではない。たとえば金沢医科大学では北陸3県の高校の出身者が優遇されていたという。これが「不適切な運用」として公表されているがそうなのか。確かに秘密裏に行われていたことは問題かもしれない。しかし、アメリカではマイノリティグループ(たとえば先住民族やヒスパニック)に関して特別な枠を設け、常に学生の一定数がその出身者で埋まるようにする措置がある。これは場合によっては適応される基準点が低くなったりすることにもつながるだろうが、そうしてでも多様な人材を確保することが社会のために大事だという考えだ。その観点から、医学部生が都市部出身者ばかりになってしまったら地方の視点で医療を考えられる人材が少なくなってしまうとして地方出身者を常識の範囲内で優遇することを私は間違っていると思わない(利権や賄賂が絡んでいたのであれば話は別)。

 

この夏ピースボートに乗ってくださった医師であり人道支援家のFauziah Hasanさんのequalityとequityは違うという話を思い出す。すべての学生に同じ基準をあてはめるしくみがequality(平等)。基準は変わるけれどもスタート地点や育った環境の異なる様々なバックグラウンドをもつ学生を登用するしくみがequity(公平)。国内格差が進む今、どのようにしたら後者を実現できるかが切実だ。この視点を踏まえて、今回の問題を官僚的にとらえて終わりにしてしまわずにもっと広い視点から考えたい。

 2 月4 日(日)のフィラデルフィアの熱狂ぶりはすごかった。この日、フィラデルフィアに拠点を置くアメリカンフットボールのチーム『フィラデルフィア・イーグルス』がスーパーボウルを制し2017 年シーズンのチャンピオンとなったのだ。チーム史上初のこの快挙に試合終了後のフィラデルフィア市内はファンで溢れた。メインの大通りは身動きがとれないほどの混雑ぶり。もともとお行儀が決してよくないとされるイーグルスファンは信号、街頭、屋根など、ありとあらゆる「登れるもの」に登り、夜通し喜びの雄たけびをあげた。


 その週の木曜日にはチームの凱旋パレードが行われた。市内を南北に走る大通りで行われるパレードには600 万人が詰めかけるとされ、混雑を緩和するためにフィラデルフィア市外から市内への電車は朝9 時半からその日の夜まで運行停止となった。その影響でペンシルベニア大学含むフィラデルフィア市内の学校は休講(!)、企業も休みとなったところが多かったようだ。


 正直アメリカンフットボールに興味があるわけではない。もっといえばルールがわかるかもあやしい。それでも学校の事務の人に「歴史的瞬間なのよ!歴史家として絶対にパレードは見るべき!」と言われ、パレードを見に行った。大学院の友人5 人で落ち合ってパレード見物をする予定が通行止めなどで全員揃わないなどというハプニングもあったが、トロフィーを掲げて手を振る選手らを遠目にみて、やはりありとあらゆるものに登るファンをみて、フィラデルフィア市民に支えられてこそのチームだと実感した。

 

凱旋パレードにて。信号に登る「フィラデルフィア・イーグルス」のファンら


 異国の地に暮らすということは、インターネットやテレビ・新聞を通してある種選択的に情報を得るのとは違う体験だ。知り合いの輪を少しずつ広げ、暮らしの中で現地の人々と「共にする」部分が増え、喜怒哀楽を分かち合う中で、思わぬ発見や気づきがあり、そのような中でその土地のことを多方面から知っていく。


 1 カ月に1 度ほどのペースで通うベトナム料理屋さんがある。先日、顔なじみになった店長さんと話していたら、ポルポト政権時代にアメリカに亡命してきたカンボジア人だという。当時東南アジアからの移民をアメリカが大量に受け入れたとは聞いていたが、その歴史がこんなにも身近にあった。ここでの暮らしに溶け込んできたからこその発見だった。


 本連載は今回が最後となるが、私は感性のアンテナをあちらこちらに向けてしっかりとたてながら、引き続きフィラデルフィアでの生活を丁寧に過ごしていこうと思う。

 

(SAITAMAねっとわーく2018年3月号)

 大学院で学びつつ、核兵器のない世界をめざして被爆者の証言を世界に広めるピースボートの「おりづるプロジェクト」に10 年来関わる私にとって、昨年2017 年は振り返ってみると信じがたいほどに歴史的な1 年であった。7 月、国連で核兵器禁止条約が成立した。原爆の恐ろしい威力が世界に示されてから72 年、被爆者をはじめ多くの人が夢にまで見た条約だった。それを受けて10 月にはノーベル平和賞が核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)に贈られることに決まった。12 月の授賞式ではICAN のメンバーとともに被爆者のサーロー節子さんがスピーチをし、被団協の田中煕巳さんと藤森俊希さんも式に参列した。式後のコンサートでは、アメリカの有名アーティストであるジョン・レジェンドが被爆ピアノを弾いた。核兵器のない世界に向けて確実に新しい風が吹いていると感じる。

 

ノーベル平和賞授賞式のあとに行われたたいまつパレードの様子​(Credit Photo: Ari Beser)


 一方で、核兵器禁止条約のことも、ICAN の活動も、なぜ核兵器が悪とされるべきなのかも、私たちが信じたいと思うほどには日本国内に伝わっていない現実に直面したのも昨年だった。核兵器禁止条約の締結までに二期にわたって開かれた条約交渉会議に日本政府は参加しなかった。もちろん条約への署名もしていない。それどころか「核兵器保有国と非核兵器保有国の対立が深まる」「ゴールは共有するが手段が違う」として、政府は核兵器禁止条約に明確な反対を示している。スウェーデン、ノルウェー、スイス、アルゼンチンなどの国では、核兵器禁止条約に加盟した場合に安全保障上どのような影響があるかなどを調査しているというが、日本にそのような動きはまだない。そしてそのような議論を国会に求める声はなかなか大きくならない。反対に、北朝鮮の脅威などを理由に核兵器や核の傘の必要性を訴える声は広まっているようにさえ思える。


 使わないことが前提の「抑止」を理由に核兵器を保有しているはずの国がいつの間にか使える核兵器の開発に乗り出していることや、核兵器の管理にミスや事故がないと言いきれないことは、核爆発の影響を再び人間が受け得る可能性を示している。たくさんの方に被爆証言を聞かせてもらった私にはそれが許されるべきではないとわかる。しかし、被爆者の話を一度も聞いたことがないという人は実は国内でも多い。私はそのような人に被爆証言を聞いてほしいと思っている。


 埼玉にしらさぎ会があるように、日本には全国各地で長年にわたって証言を広めるべく活動に励んできた団体がある。そのようなみなさんと協力しながらもっと多くの人に核兵器の被害の実相を考えてもらいたいと思い、クラウドファンディングに挑戦した。2 カ月で100 万円を超
えるお金が集まった。現在も募集中だ。今できることを着実に積み上げたい。 

 

(SAITAMAねっとわーく2018年2月号)

 アメリカの大学スポーツの試合では、各大学のマスコットキャラクターが登場して応援するのは日本でも知られていると思う。コロンビア
大学はライオン、プリンストン大学はタイガーといった具合だ。ハーバード大学が創設者ジョン・ハーバードを用いているように、人物がマスコットになる場合もある。ペンシルベニア大学はというと、「クエーカー」がキャラクターだ(写真参照)。彼は一体何者なのか。

 

スタジアムでポーズするペンシルベニア大学のマスコットキャラクター「クエーカー」


 マスコットとしては人間の形をしているが、クエーカーは実はクエーカー教という宗教の一派、あるいはその信者のことを指す。そしてペンシルベニア大学のマスコットに起用されていることからもわかるように、ペンシルベニア州とクエーカー教は深いつながりがある(ただし大学自体は無宗教)。キリスト友会とも称されるクエーカー教は1650 年代初めにイングランドで始まった宗教だ。しかし、クエーカー教徒の活動が拡大すると、クエーカー教徒に対する迫害も広がるようになる。その中で、ウィリアム・ペンが、クエーカー教徒が安全に暮らし、信仰を守れる安住の地として作り上げたのがペンシルベニア州なのだ。今でも州都フィラデルフィアにはアメリカのクエーカー教徒が集中していると言われる。


 クエーカー教は何よりも、その揺らがない平和主義で知られている。私もいくつかのクエーカースクールにお邪魔したことがあるが、「私たちは人間一人一人に神が宿っていると考えているから、誰かに暴力を振るう、ましてや誰かの命を奪うということは、神への冒涜でしかないのだ」と先生が説明していたのが印象的だった。暴力は常に誤りだというこの信念が故に、クエーカー教は歴史的に多くの良心的兵役拒否者を生んできたことでも知られている。ちなみに第二次世界大戦直後の1947 年のノーベル平和賞はアメリカとイギリスのクエーカー団体に贈られている。


 アメリカの歴史をみても、非暴力や平等への信念を曲げないクエーカー教徒が果たしてきた役割は大きい。アメリカで初めての奴隷制度廃
止運動団体をつくったのはフィラデルフィアのクエーカー教徒だ。以前も紹介したが1911年に女性の参政権を求めるアメリカで最初の屋外集会が行われたのもここフィラデルフィアで、これにもクエーカー教徒が関わっていた。これまた過去に記事にしたが、初めて「犯罪人の真の反省と更生」を目指したことで知られるイースタン州立刑務所の設立にもクエーカー教徒が関わった。


 クエーカー教が示してきたような「平和の実践」が、いかにして不可能を可能にし、多くの人の尊厳を取り戻し、世界の歴史を形作ってきたかということを、今一度見つめ直したい。

 

(SAITAMAねっとわーく2018年1月号より)