2024年、私は「NO」を恐れない | 019|まる・いち・きゅう

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丸い地球をまわりながら考えていることの記録

うしろ向きな言葉が好まれない社会なのは知っている。何かにNOというよりも、何かにYESというほうが受け入れられやすい。というか、NOというヤツは嫌な感じ。言わんとしていることはわかる。

 

それでもこの数か月ガザで起きていることに対して、NO以外の言葉が私には見つからない。普通の人が普通に暮らしているだけなのに爆撃を受け続ける約3か月。私たちがハロウィンだと浮かれ、クリスマスだと浮かれ、紅白だカウントダウンだおせちだ初詣だと言っている間ずっと、ガザの人は逃げている。そして死んでいる。子どもは10分にひとりのペースで死んでいる。加えていうと、イスラエルがガザを攻撃するのは今回が初めてではない。2007年にガザが完全に封鎖されて逃げ場がなくなってから、2008年も、2012年も、2014年も、2021年も、2022年も、イスラエルはガザを攻撃してきた。そして今回、イスラエルの閣僚の一人はガザへの原爆投下を一つの選択肢だとまで言った。これでも「STOP KILLING」というのは「主張が強すぎ」ですか?

 

そんなことを考えている間に、2023年がおわり、2024年がやってきた。私はあけまして「おめでとう」とは、どうしても言えなかった。それはそれ、これはこれ、とも思うのだが、どうしても言えなかった。

 

年明け最初のニュースは能登半島地震。今も刻一刻と被害が拡大している。自然災害の圧倒的な破壊力を、また見せつけられている。ピースボート災害支援センター(PBV)のスタッフはすでに被災地に向かった。この寒い季節、どうかひとりでも多く救出されますように。被災した人、家族を亡くした人にとっては、ここからが本当に大変なのだと思う。着実な支援を重ねていきたい。

 

ただ、この二日間、11月にギリシャで出会ったパレスチナ人に投げかけられた「私たちの存在価値は、他の人より低いですか」という言葉が浮かんでは消える。地震のニュースで正月特番がすべて飛んだテレビをぼうっと眺めながら、人の命の重さは違うし人の命には国境があると、むなしくかみしめる。ウクライナもガザも、年末の振り返りでしかもはやメディアは扱わない。そんな中、国内で起きた地震はメディアを埋め尽くし、誰もが「できることはなんでもしたい」と思っている。戦争と自然災害は違うと人は言うのかもしれない。でも、巻き込まれる市民の立場にたてば、そこに何も違いはない。ただ普通に生きていただけなのに、暮らしを奪われ、故郷を奪われ、命を奪われる。というか、戦争こそ、人が起こしているのだから、止められるはずではないのか。

 

先日(12月28日)NHKの「おはよう日本」に出演する機会をもらった。「国内外ともに暗いニュースが多い1年だったが、ひとつひとつに解決策は必ずある、思いを言葉にしていくことが大事」と言った。「思いを言葉にすれば同じ気持ちの人が見つかるかもしれないし、それがきっと何かの行動につながっていく」とも言った。ただ、それは翻せば、言葉にしなければたくさんのことがなかったことになってしまうということでもある。

 

何かを言葉にすることには少しの勇気がいる。NOを言葉にすることにはもっと勇気がいる。でも、そのNOは誰かが心底必要としている言葉かもしれない。初めて「サンデーモーニング」にコメンテーターとして出演することになった昨年2月、性的マイノリティや同性婚について差別発言をした首相秘書官のニュースがあった。コメント内容について相談した当事者の友人に「あの発言はダメだと思っている大人がちゃんといるということを公共の電波で示してほしい」とまっすぐに言われた。10月、東エルサレムにいるパレスチナ人の友人に「私たちに何ができるか」と尋ねたら、とにかく世界に向けてガザへの攻撃は許されないと発信してほしいと言われた。

 

私の経験上、NOと声をあげることに必要なのは、ひとりの味方だ。たったひとりでいい。ひとりでいいからぶれずに「私もNO」と言ってくれる人が見つかれば、NOという勇気が持てる。私は今年もその味方をさがすために、自分の気持ちを言葉にしながら、おかしなことにNOと言い続けようと思う。

 

*ガザについて知識を得たい方は大和書房から緊急出版された岡真理さんの『ガザとは何か:パレスチナを知るための緊急講義』がおススメです。