「小野田少尉は陸軍中野学校出身である」から見えてくるもの | UC摂理打開のために360軒ホームチャーチ吟味は必須事項

UC摂理打開のために360軒ホームチャーチ吟味は必須事項

2031年アセンションに向けて万全の準備ができたぞ

2014年に91歳で亡くなったあの小野田寛郎氏の歩みを振り返ってみたい。彼は戦後30年間に渡り、一人でフィリピンのジャングルの中に身を潜め、自分の任務を遂行し続けた。その小野田氏が、任務に終止符を打ち、この娑婆世界に姿を現したのが1974年の事であった。当時の小野田氏は何歳だったっけ?このブログ村の住人も、当時の小野田氏がジャングルから出て来たところをテレビの画像で見た人多いと思います。

 

小野田氏がジャングルから出て来た後に分かった事なのですが、30年間シャングルの中に身を潜めていた小野田氏は、戦後それほど時間が経過していない頃に、すでに天皇の敗戦宣言や軍人に対する戦争放棄と投降の呼びかけは知っていたらしいのです。であるにもかかわらず、彼はその後も一人フィリピンのジャングルに残り、長く居続けた。その目的とは一体何なのか。

 

小野田氏が陸軍中野学校出身の人間であると思わせるエピソードがある。

それは小野田氏の母親が我が子のことを聞きつけて日本から遥々フィリピンのジャングルまでやって来て、拡声器を手に持ち、自分の息子に向けて早くジャングルから出てくるよう必死に説得にあたり呼びかけた。しかし小野田氏は一切動じず姿を現さなかった。そして、その後、元陸軍中野学校の小野田氏の上司と言われる人がジャングルに身を潜める小野田氏に向けてある文言を呼びかけた。それは「任務を解く」である。この文言を聞いて初めて彼は反応して娑婆世界に姿を現したのだ。それが当時のテレビ画像に写し出された小野田氏の姿であった。あのテレビ画像の裏にはこのような背景があったのである。つまり天皇の声には従わず、自分の母親の声にもスルーし、唯一、彼の心を掴んだ文言が、元陸軍中野学校の上司が発した「任務を解く」という声であった。

 

 

ここで陸軍中野学校に関して触れたい。スパイを養成する陸軍中野学校は1938年に設立された。それで終戦の年が1945年。だから陸軍中野学校はわずか7年間しか存続していない。卒業生も千人位と規模が小さい。陸軍中野学校の特質として最も着目すべきは、陸軍中野学校とは、大和朝廷と皇国史観に基づいたエリート軍人を輩出するための陸軍士官学校とは完全に一線を画している。陸軍士官学校の流れとは、その源に欧米のフリーメイソンが潜り込んで立ち上げた明治維新と明治政府の説く富国強兵が源流にある。

 

陸軍中野学校卒業生の任務とは、戦後、欧米からの植民地支配を受けるアジアをその魔の手から解放することにあった。戦後においてインドやインドネシアを欧米植民地支配から独立解放に導いたのは確かに陸軍中野学校の卒業生であった。

 

ならば天皇の敗戦宣言や戦争放棄や軍人の投降命令をジャングルの中で知っていた小野田氏が、なぜ、その後も30年間、一人でフィリピンのジャングルに居続けたのか?それは自らの任務を遂行するためだ。戦後のフィリピン政府が依然として「アメリカの傀儡政権であること。そしてフィリピンに真の自由がないことを小野田氏は知っていた。だからこそ彼は天皇の敗北宣言や日本兵の投降を呼びかけられても動じず、アメリカ配下のフィリピンを解放するために、一人ジャングルに居続けたに違いない。元陸軍中野学校の上司がジャングルにいる小野田氏に向けて言い放った、この言葉「任務を解く」という意味はその辺にあるのかも知れない。

一つ言えることは、アジアを欧米の植民地支配から真の解放に導くために、陸軍中野学校の卒業生が持っていた思想とは、国家や天皇どうのこうのじゃなく、素朴な市民に寄り添った思想であったに違いない。こういう事柄を踏まえた上で、この動画をもう一度視聴していただきたい。

事実は小説よりも奇なりと言うが、この北朝鮮観どう思う! | 時が来たら派閥を越えた評議会を作ろう (ameblo.jp)

 

 

 

 

 

善悪逆転劇 | 時が来たら派閥を越えた評議会を作ろう (ameblo.jp)