村で見かけた御言に触れて。真の総括と再出発 | UC摂理打開のために360軒ホームチャーチ吟味は必須事項

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2031年アセンションに向けて万全の準備ができたぞ

み言葉抜粋
 終わりの日には、誰の言葉も聞いてはいけないと言いました。ここに来て語る人の言葉も信じるなということです。いくら血と汗を流して話をしても聞くなというのです。どちらが偽りで、どちらが真なのか分かりません。自分の父母も信じることができず、兄弟も信じることができないのに、誰を信じるというのですか。
 今の時は、心の審判から自ら勝利しなければなりません。心の審判、心で審判して、間違っていれば切ってしまわなければなりません。心は知っています。あらゆる面において心の審判をしなければならないのです。それができなければ、終わりの日には、頭に油を塗って密室に入り、祈祷して談判しなければなりません。教派も多く、優れているという人も多いのですが、終わりの日に神様は何を準備されたのですか。主が臨むことのできる環境基盤はどれですか。どのようなものが主の理念世界を建設できる民ですが。祈祷してみましたか。死ぬ穴なのかそうでないのか分からず、むやみに口を開いてもがきながら騒いでいるというのです。(1960.6.5)

 すべてのものを捨てなければならない時が来るのですが、その時が終わりの日です。そのような終わりの日に神様のみ旨はどのように現れ、神様の真理と愛と生命がどのようなときに現れるのでしょうか。そこは、すべての人間の希望であり、求めていかなければならない中心なのです。したがって、皆さんがそこを知らなければ、心を立てて磨きながら準備しなければなりません。そのように準備していれば、そこに行こうとしなくても、いつか自然にそこに行くことができるようになるのです。
 それでは、どちらが真で、どちらが偽りかは、何をもって分別できるのでしょうか。この時には、神様も真と偽りを教えてあげることはできません。神様がどのようなものが真だと教えてあげたあとには、その反対に偽りだと教えてあげなければなりません。ですから、人間自身が分別されなければならず、人間自身が決定しなければならず、人間自身が探し立てなければなりません。したがって、皆さんは、10人の乙女の例えの中で、あかりを準備した思慮深い5人の乙女だけが主を迎えた、という聖書のみ言葉の意味を学ばなければなりません。(1957.3.17)

抜粋終わり

 

 

 

 

顯進氏の言う統一家の混乱が、結果として今現在の危機的な国際情勢と連動していると結論づけた場合、すなわち統一原理を絶対基準において、現代の摂理を歩んできた統一運動を肯定したとき、この終末に関する御言葉は文氏の晩年に語られるべきです。

 

つまり統一食口が人間の責任分担を全う出来なかったので、現代の神の摂理を担って来た統一運動の失敗を文氏が見定め、最後の最後で統一食口たちに向けて遺言のように語った終末の御言葉なら流れとして分かるのです。

しかし、この終末に関する御言葉は、既に1957年と1960年に語られているのです。ですから1954年に統一協会が韓国ソウルにおいて創立されてから3年目と6年目に語られた御言葉す。

 

私個人的には、1957年と1960年という統一運動の初期の時の脂がみなぎった文鮮明氏の未来に対するモチベーションから生じた御言葉とは、晩年とは異なる混じりっけの無い純粋な神の摂理の真実が潜んでいるように思えるのです。

 

ここで最大限に着目すべき事は、当時(1957年と1960年)にしてみれば、文鮮明氏がこれから渡米して世界摂理を出発しようとしている矢先の時期において、この二つの終末にリンクする御言葉内容は、しっくり来ない。読んで頂ければ分かるように、この二つの御言葉は、明らかに統一原理の原理観から逸脱しています。30歳代後半の文氏は、初めから半世紀以上先の未来に訪れる人類終末時を明確に意識しています。そんな御言葉です。「復帰完成完結と永遠の平和大国」とリンクします。

読者はどう思いますか?

現在のウクライナ問題と「1」が重なる?

統一原理から逸脱した規格外の御言