妙林尼は資料によって妙麟尼の字が使われています。大友宗麟の重臣吉岡鑑理の正室で、夫が耳川の戦いで討ち死にしたあと尼になって、子の吉増を養育し、子どもに代わって鶴崎城を守ったことで知られています。
私は、以前『お江と戦国武将の妻たち』(角川ソフィア文庫)を書いたとき、「女城主」として薩摩の島津軍と戦った彼女のことを取りあげておきながら、戦いの舞台となった鶴崎城(大分市南鶴崎町)には行く機会がありませんでした。
ところが先日、大分市で講演があり、前泊して、念願の鶴崎城址に行ってきました。『日本城郭大系』に遺構は何も残っていないと書かれていて、「でも、さがせば何か痕跡があるのではないか」と考え、付近を歩いたのですが、やはり、何もありませんでした。これは、どうも、江戸時代、熊本藩の飛地があり、その跡にお茶屋が建てられたため壊されてしまったようです。鶴崎小学校の校庭に城跡碑があるだけでした。
『豊薩軍記』に妙林尼が乙津川のほとりに伏兵をひそませていたという記述を思い出し、乙津川べりをしばらく探索して歩きました。本で「おとつがわ」とルビをふったのですが、地元の人に「おとづがわ」といわれ、ルビを訂正しなければと思った次第です。
東京都八王子市の滝山城が「続日本100名城」に選定され、地元のNPO法人滝山城跡群・自然と歴史を守る会主催の講演会が開かれ、行ってきました。
講演の演題と講演者は下記の通りです(敬称略)。
「北条領国における滝山城の歴史的意義」小和田哲男
「遺構から読み解く滝山城」中田正光
「北条氏照と八王子~由井・滝山・八王子三転説の再検討」
峰岸純夫
私の講演は、北条氏の支城領支配の巧みさを中心にしたもので、滝山城の築城時期と、八王子城への移転理由に言及しました。
中田さんの講演で私自身勉強になったのは、城内西北端に築かれている「山の神曲輪」が民衆の避難所の意味をもっていたのではないかという指摘です。小田原城の「百姓曲輪」ともつながってくる視点ではないかと思いました。
峰岸さんの講演は、北条氏照が大石氏の家督をついで入った城を、従来は由井城(浄福寺城)としてきたことについての疑問点をあげたもので、今後の検討課題であるとの印象をもちました。峰岸さんは今年85歳。学生の頃から尊敬していた大先輩と同じ演壇に立てたことをうれしく思い、帰路につきました。