関ケ原の戦いがあった旧暦9月15日は新暦に直すと10月21日になります。その10月21日、関ケ原町で「関ケ原合戦祭り2012」という催しがあり、その中で、「笹尾山で関ケ原を語る」と題した私の講演会が、石田三成の陣地笹尾山で開かれました。

城跡で野外講演をやったことはありますが、古戦場では初めての経験でしたが、黒田長政の本陣丸山、家康が桃配山から移した本陣の陣馬野、さらに、遠くは南宮山、松尾山が実際に見えるところで、「あの松尾山からこの方向に小早川秀秋が攻め下ってきた」というように、指差しながら臨場感ある講演ができたと思っています。

この日は、主に笹尾山での攻防戦の様子と、笹尾山の三成本陣が描かれた合戦図屏風を使いながら、屏風から得られる情報についてくわしく話をさせてもらいました。晴天だったこともあり、多くの人が訪れていて、私も、「元祖歴史系アーティスト」さくらゆきのライブや、武者行列、さらには実際の戦いの主要場面を模擬的に演ずる「合戦絵巻」を楽しませてもらいました。

「上州路地歴探訪の旅」という企画で、1泊2日の旅をしてきました。迦葉山・榛名神社・水沢観音などの寺社も含めましたが、私が解説を担当したのは主に城です。

群馬県渋川市の白井宿のところに白井城があります。関東管領上杉氏の重臣長尾氏の居城で、吾妻川の断崖をうまく使い、本曲輪・二の曲輪・三の曲輪がよく残っています。本曲輪虎口の石垣は長尾氏時代のものではなく、天正18年(1590)の小田原開城後、徳川家康の家臣本田広孝らが入っているので、そのころのものと思われます。

沼田城は広大な城域がよく残っているのですが、城としての整備は進んでいません。沼田公園としていろいろな植物が植えられ、テニスコートになったり、野球場になったりしています。城域の西端、利根川の断崖のあたりに櫓台の石垣がわずかに残っているのがせめてもの救いといったところです。

沼田城にくらべ、利根川対岸の名胡桃城は遺構がよく残っていて見ごたえがあります。天正18年の秀吉による小田原攻めの口実を与えてしまった城として、歴史的にも有名ですが、発掘調査に基づいて整備が進められています。以前にはなかった立体表示で、三の曲輪から二の曲輪に入るところに、竹とロープで、かつての虎口の土塁を再現してみせてくれているのには感心しました。

そして最後の締めが箕輪城です。搦手口のところに駐車場ができていました。これまでは自家用車できても、車の置き場所に苦労していたのですが、観光バスが4台ほど入れる広さを確保してくれていてありがたく思いました。遺構は(財)日本城郭協会の「日本100名城」に入っているだけあって残りがよく、本曲輪と二の曲輪の間の大堀切、二の曲輪と郭馬出の間の大堀切は圧巻で、ここは見ごたえがあります。

先日、鎌倉市城廻にある清泉女学院で開催された「玉縄歴史アカデミアNo.14」の講師として「戦国北条氏と鎌倉そして玉縄城」と題する講演をしてきました。清泉女学院の建つ場所が、玉縄城の本曲輪があったところです。講演後、後北条氏研究会以来の研究仲間である伊藤一美さんと、作家の伊東潤さんと3人で鼎談も行いました。

玉縄城は、北条早雲が永正9年(1512)に築いたもので、今年はちょうど500年になるということで、玉縄城址まちづくり会議が中心となり、6年ほど前から準備を進め、アカデミアという形で勉強会を積み重ねてきたものです。

当日、清泉女学院中学高等学校の須田校長の御好意で、休憩時間に屋上にあがらせてもらいました。まさに、本丸の井楼櫓から城内および城外をみることができたわけで、当時の武将たちも、これと同じような光景をみたと思うと、いい経験ができたと感謝しています。

講演前には、整備された七曲坂および太鼓櫓址を見学しましたが、太鼓櫓背後の空堀が、昔みたときと同じ姿で残っているのをみて少し安心しました。