静岡駅の駅前にある静岡市美術館 で、2月11日まで表記の特別展をやっています。静岡でなぜ近江の仏教美術なのか、その関連性はよくわからないのですが、長いこと近江をフィールドにしていて、訪ねたことのあるお寺の仏像がいくつも出展されていることを知り、なつかしい仏さんをまた拝むことができると、わくわくする思いで行ってきました。

延暦寺をはじめ園城寺・聖衆来迎寺・百済寺など有名な寺の国宝・重文がいくつも展示されていて、一度にこうした仏像・絵画を見る機会はあまりないのではないかと思いました。

仏像や経典・絵画だけでなく、寺社への武将たちからの奉納品と思われるものもあり、大嶋神社・奥津嶋神社の重文の菊花螺鈿鞍・黒漆鐙は、あることは知っていましたが見たのははじめてです。

鎌倉には七口といって七つの口があり、それぞれ切通によって外とつながっていました。極楽寺坂切通・大仏坂切通・化粧坂切通・亀ヶ谷坂切通・巨福呂坂切通・朝比奈(国史跡名称は朝夷奈)切通・名越切通の七ヵ所です。

今回、静岡古城研究会の見学会として、このうち、大仏坂切通・朝比奈切通・名越切通の三ヵ所をみてきました。よく知られているように、九条兼実の日記『玉葉』に「鎌倉城」と表現され、鎌倉は、三方を山に囲まれ、前は海という自然地形を巧みに使った城郭都市、あるいは城塞都市というのが通説になっています。

ところが、最近、こうした通説に対して異論も出され、切通をこれまでのように、ただ防御遺構としてよいのかという議論もなされるようになってきました。私も、従来は漠然と、七つの切通で敵の侵入を防いだと考えていたのですが、最近の論争を自分なりにもっと深めるべく、出かけてきました。

現在の朝比奈切通は中世のままではなく、かなり拡幅されているとの印象を受けました。同行した会員の情報だと、場所もちがうのではないかということで、私も、朝比奈切通は防御遺構というよりは、六浦・金沢方面との通路として、むしろ、山を切りひらいたものと考えました。

ただ、大仏坂切通と名越切通については、中世のままで、屈曲もあり、高低差もあり、明らかに防御遺構だと思いました。この二ヵ所ははじめてで、よく残っているのにびっくりしました。

沼津市教育委員会が沼津市にある興国寺城跡を継続的に発掘調査していて、本年度は本曲輪の東、清水曲輪を発掘しています。昨年12月8日に現地説明会があったのですが行くことができず、昨日、発掘担当の木村聡・高尾好之両氏のご案内で見学が叶いました。

私は興国寺城跡を国史跡に申請する頃、同城跡の調査・整備の委員長だったのですが、大学の管理職になったとき、「公務に専念するように」といわれ、辞職したいきさつがありました。その頃、私は清水曲輪も城域の一部だと考えておりましたので、少しだけ試掘をしてもらいました。そのとき、堀の一部らしいものが出てきましたが、国の史跡になったのを機に、整備を急ぐ必要から、主郭にあたる本曲輪・二の曲輪の方の発掘調査を優先したため、清水曲輪はあとまわしになり、ようやく本年度、本格的な調査となったわけです。

今回の調査で、北に対する備えの大きな空堀がはっきりした形で出てきました。幅13m、深さ2.8mで、しかも2ヵ所屈曲を設けています。折で、これは横矢掛りとみてよいと思います。しかも、同じ場所で、堀が改修されていることもわかりました。最初の堀は薬研堀で深さは3.8mと深いものの、幅は4.5mほどしかありません。薬研堀の底の方を埋めて箱堀にし、幅を広く作りかえているのです。薬研堀が武田氏時代、箱堀は天正10年(1582)~18年(1590)の徳川氏時代とみたのですが、どうでしょうか。

なお、今回、お二人に案内していただきながら、興国寺城の位置づけについても示唆を与えられました。従来、何となく、「興国寺城は北条の城」という固定観念があり、本曲輪・二の曲輪・三の曲輪が南北一列に連なる連郭式とみて、私なども「北条氏の築城技法連郭式がみられる典型的な城」といってきたわけですが、武田時代の改修・拡張、徳川時代の改修・拡張の事実もきちっと追いかけていかなければならないと思いました。