関ケ原町主催の関ケ原魅力アップ事業の一つとして、関ケ原モニターツアーというものが先日行われ、その東軍コースを私が担当しました。

慶長5年(1600)8月20日、清洲城で福島正則・池田輝政ら先鋒軍だけで軍評定が開かれていますので、清洲城から関ケ原に向かいました。8月22日、池田輝政らが河田で木曾川を渡り、そこで、岐阜城の織田秀信の軍勢と戦いがあり、そこが米野古戦場です。関ケ原の戦いの前哨戦の一つですが、一般的にはあまり知られていません。木製の碑が一本と、近くの墓地に戦死者を弔う慰霊碑があるだけですが、そこから岐阜城が正面に見えます。隠れたスポットといってよいかもしれません。

8月23日の戦いがくりひろげられた岐阜城は時間の関係で往復ロープウェーを使ってしまいました。七曲り口、百曲り口の激戦の場所を案内できなかったのは心残りでした。ただ、その代わり、徳川家康が本陣を置いた岡山(お勝山)の陣所を、背後の金生山から見ることができました。私は金生山ははじめてで、そこから大垣・南宮山がよく見通すことができ、家康もこの光景を目にしたと思うと、急に9月14日にタイムスリップしたような気になりました。

そのあと、合渡川の戦いの跡・杭瀬川の戦いの跡を通り、桃配山、さらに最後の陣地陣馬野まで進めました。

先日、高知県立歴史民俗資料館の特別講演として、「戦国土佐の城と秀吉の城郭統制」という話をしてきました。学生時代から戦国土佐の城はいくつかみてまわっていましたが、本山氏の最初の居城本山城(本山町)は行っていなかったので、館長さんにお願いし、早めについて、城歩きの姿になって案内していただきました。

城下に「桂月 」の看板がいくつもあり、「このあたりの地酒ですか」と聞くと、土佐町の地酒とのことでした。「呑んだことないな」とつぶやいたのを館長さんが聞いていて、その夜の食事会のとき、何と、その「桂月」が出てきました。館長さんの心配りにびっくりしました。

講演の次の日、今度は、館長さん・副館長さんのご案内で本山氏のもう一つの城朝倉城に登りました。比高は本山城よりは低いのですが、遺構は本山城よりはるかによく残っていました。「何で、こんなすごい城を作ったのに長宗我部氏に負けてしまったんだろう」と思うくらいです。とにかくすごい城です。複雑な縄張りと、竪堀などの普請の大規模さに圧倒されました。

今度、静岡県が『ふじのくに家康公観光辞典』という冊子を出すことになり、そこに、私と昇太師匠との対談を掲載するということで、先日、その対談をしてきました。

内容は、家康ゆかりの観光スポットを紹介するということですが、話題はどうしても城中心で、城の話で盛り上がりました。

すでに昇太師匠は、武田勝頼が築いた島田市の諏訪原城の壮大な三日月堀(丸馬出)が家康の補強したものだということをご存知で、近年の発掘調査の成果にまで目くばりしていることにびっくりしました。ちなみに、私は今、その諏訪原城の整備・調査の委員長をつとめていますので、諏訪原城を、ただ「武田式築城術の名城」というだけでなく、家康とのからみで売り出していくいい機会になるものと思っています。