今年一番びっくりし、かつうれしかったのは、浜松城の整備に関してです。広島大学の三浦先生の設計による天守門が復元され、あわせて、その周辺の整備が急速に進みました。その過程で徳川家康時代の浜松城の堀が発見されたことは、このブログにも書きました。
市役所の建物の西側にあたる部分は民有地になっていて、そこには、ふつうの住宅だけではなく大きなマンションも建っていました。100%無理なことは承知で、研究者の立場から発言をしたところ、市の職員がその後、努力してくれて、マンションが撤去されることになり、これには、私もびっくりでした。
一方、思ったことを口にしていい成果につながった例があります。長野市の松代城整備の委員会でのことです。附属の真田家新御殿の解体修理が行われ、そのお披露目のときのことです。建物から庭をみていて、庭の向こうに電線があるのに気がつき、「あの電線がなければ景観がよくなるのに」とつぶやきました。誰かに向かっていったわけではなく、完全に独り言だったのですが、次の委員会のとき、電線がみえなくなっていました。市の職員が、「先生の一言がきっかけで電線を地下に埋めました」とのこと。
うれしかった半面、一言でも与える影響の大きさを認識いたしました。
先月、信濃教育会全県研究大会(社会科分科会)の講師として、長野県飯綱町の飯綱町立三水小学校に行ってきました。長野駅から車で1時間ほど、飯綱山の麓にある小学校です。飯綱山をこんなに間近で見たのははじめてでした。
廊下を歩いていくと、校歌が掲示されていました。いつもは、校歌に目をとめるということはないのですが、たまたま「作詞 足立鍬太郎」という文字が目にとまりました。主催者との一通りの挨拶と打ち合わせの後、同席されていた水上勇校長に、「ところで、校歌の作詞者 足立鍬太郎というのは、このあたりの方ですか」と質問しました。
私の知っている足立鍬太郎は、戦前の『静岡県史料』を中心になって編纂した静岡県の地域史研究の草分けともいう人で、『今川氏親と寿桂尼』という本を出され、今川氏親夫人寿桂尼にはじめて光を当てた大先達だからです。「同姓同名の人がいたのでしょうか」と聞いたのですが、よくわからないようでした。
先日、その水上校長からお手紙があり、調べた結果、同一人だということがわかりました。先生は島根県の出身で、長野県の飯山中学校の初代校長となって赴任し、そのとき、三水小学校の校歌を作詞されたとのことでした。その後、県立諏訪中学校の校長を経て静岡に移ったとのことでした。何事も、疑問に思ったことは聞いてみることですネ。
先日、盛岡市のもりおか歴史文化館で表記の講演をしてきました。今年の大河ドラマ「軍師官兵衛」のタイトルバックにもなっている官兵衛所用の「銀白檀塗合子形兜」がもりおか歴史文化館に所蔵され、その展示公開に合わせて開かれた講演会です。
お椀を伏せたような変わり兜で、少なくとも、官兵衛が石垣原の戦いには、これをかぶって出陣していったことが知られています。その兜がなぜ盛岡にあるのかについて話をしてきました。
官兵衛が亡くなるとき、形見分けとして重臣の栗山善助利安に渡したもので、善助の子大膳利章のとき、黒田騒動の責任を取らされる形で利章が南部藩に預けられることになりました。そのとき、この赤合子の兜だけ持って盛岡にやってきたため、盛岡にあるというわけです。

この講演会は、地元の川口印刷工業株式会社創立110周年記念の講演会ということでした。その夜、主催者のご招待で、盛岡の地酒「鷲の尾」「菊の司」「あさ開」を堪能致しました。

次の日、同社の社員で日本城郭史学会の会員神山氏と、一戸町教育委員会の中村氏のご案内で、根反城と姉帯城に行ってきました。根反城は雪で中に入れず、外から写真を撮っただけでしたが、姉帯城の方はどうしても行きたかったので、長靴を借り、雪を踏みしめて、曲輪・空堀などを見てまわりました。二つとも、九戸政実の乱のときに反乱軍の城として使われたところで、九戸城には何度も行っていたのですが、二つはまだだったので、今回、念願が叶いました。