今月15日、新聞各紙は表現こそちがうものの表題のような記事を載せました。京都の井伊美術館井伊館長の記者発表を受けてのものです。このことについて、数社からコメントを求められ、いくつかの新聞には私のコメントも紹介されていましたので、お読みになった方もいらっしゃると思います。中には某週刊誌のように「話題づくりにNHKがしかけたのでは」といった趣旨の憶測記事もありましたが、それはないでしょう。
私が新聞社に答えた要点はつぎの3つになります。
1.同時代史料ではなく、聞き書きなので、江戸時代井伊氏の家臣の家にはそうした伝承があったといったことがわかるが、信憑性については低い。
2.仮に、関口氏経の子が井伊次郎を名乗ったとしても、今回紹介された史料では、井伊次郎=直虎という記述はない。
3.井伊氏の惣領の仮名(けみょう)は代々次郎で、だからこそ、龍潭寺の南渓和尚も、惣領直盛の一人娘の出家に際し、次郎法師という名を与えたのです。次郎法師がいるのに、別の人間が次郎を名乗れるとは考えにくい。
以上が取材を受けた段階での私の見解ですが、その後、いくつかのことを考えました。一つは、新聞報道でしかみていないのですが、関口氏経と新野左馬助が兄弟だったとする点に疑問があります。新野氏の系図にはそのような事は書かれていません。もう一つは、仮に、関口氏経の子が井伊次郎となったとして、それが直虎だったとすると、そのあとの、井伊直政(幼名虎松)へのバトンタッチが説明できなくなります。
なお、私見ですが、江戸時代の人には、「女性が家督代行とはいえ、支配者になる」とは考えられなかったのではないでしょうか。大名の無嗣断絶の例が多く、「家督は男が継ぐもの」といった先入観があり、このような伝承ができたとも考えられます。しかし、次郎法師が一時的にではあれ、井伊谷を支配していたことは次郎法師の印判状(「龍潭寺文書」)の存在によって明らかです。
いずれにしても、今回の新出の史料については、おもしろい史料であることはまちがいないので、論文なり、史料紹介の形で発表されたのち、多くの研究者によって議論が深まることを期待しています。
最後になりますが、今年1年間ブログをお読みいただき、ありがとうございました。
よいお年をお迎え下さい。