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ライブハウスの最後尾より

邦楽ロックをライブハウスの最後尾から見つめていきます。個人的な創作物の発表も行っていきます。

どうも( ^_^)/

 

眠い者です。

 

すごく眠い。いつでも寝られる。いつまでも寝てしまえる。

 

頭がボーっとし続け、ダラダラと本ばかり読んでいます。

 

その中の一冊を紹介します。

 

ロバート・L・スティーブンソン/ジキルとハイド

訳・田口俊樹

 

 

『ジキル博士とハイド氏』で有名ですが、読んだ新潮文庫バージョンのタイトルが『ジキルとハイド』だったのでそれでいきます。

 

 

誰もが知っている名作というのは一種、考えものなところがあります。

 

すなわち、「読んでないのに読んだ気になってしまう」ところです。

 

 

温厚なヘンリー・ジキル博士が薬を飲んだら狂暴なエドワード・ハイドの人格が出来上がり殺人を犯す。二重人格となったジキルは最終的に死んでしまう。

 

 

ネタバレとはいえないほど、よく知られたプロットです。

 

だからこそ、それで分かった様な気になってはいけないと思って原作に当たってみたら、これがやはりというか知らないことだらけでした。

 

 

話の中心というか狂言回しはジキルではなく友人の弁護士アタスンであること。

 

ハイドはまったく交渉不可能な怪物ではなく、それなりに損得勘定や一般的なコミュニケーションも取れる人間であること。

 

ジキルの二重人格傾向は薬を飲む前から存在していたこと。

 

ハイドはジキルよりも背が小さいこと。

 

 

特に最後が一番驚きました。

 

ハイドの造形について、引用します。

 

ハイドは肌の青白い、小人のような男だった。はっきりとした病名のあるものではないにしろ、何らかの奇形を思わせる。不愉快な笑み、臆病さと厚かましさがないまぜになった異様な振る舞い、どこか壊れたようなしゃがれた囁き声。それらすべてがハイドを不快に見せている。(P.31)

 

勝手にデカいと思い込んでました。明らかに『フランケンシュタイン』のイメージと混ざってしまってます。

 

ちなみにフランケンシュタインについても過去、書きました。

 

 

この、化け物の人格の方が小さいということについて、後半、ジキルの手紙の部分でこう書かれています。

 

それまでの私の人生は九割方、努力、廉潔、抑制というものに支配されており、邪悪さの方は実践され、利用され尽くす機会がずっと少なかったからだ。エドワード・ハイドがヘンリー・ジキルよりずっと小柄で痩せていて若かったのはそのせいだろう。(P.119)

 

その、≪純粋な悪(P.120)≫だけを集めたハイドの姿にジキルは≪より溌剌とした精神の像(P.119)≫を見出し、耽溺し、堕ちていくわけです。

 

悪行を犯したいという小さな性癖、心の中に一部の欠点としてあった快楽主義的な部分が思わず完成した薬によって膨張し増長し取り返しのつかない事態に繋がってしまい、最期は破滅する。

 

最初期の作品ながら怪奇物語としてとても上質だし、裕福で善良な科学博士の転落ぶりは負のカタルシスを感じます。

 

 

街中を好き勝手に振る舞うハイド=ジキルからは、アッパー系の薬物中毒患者の雰囲気も漂います。

 

呑んだくれは、自らの悪癖について考えることはあっても、酒が肉体的感覚を酷く麻痺させることの危険性についてまでは五百回に一回も考えない。(P.130)

 

最終的には禁断症状のように薬がなくても変身するようになってしまう。すっかり肉体が人格に飲み込まれしまう。すっかり仕草は逆転し、ハイドになるために薬を飲んでいたのが、ジキルの姿を保つために薬を飲むようになる。

 

ここはもう自業自得の滑稽さの方が勝ってしまうシーンですが、何度か読み返してみると、少々哀しみが持ち上がります。

 

特に最後はジキルの、ある意味自分勝手な罪の告白文で締めくくられますが、友人の愚行に何もすることができなかったアタスンの心情を慮ると、胸をスッと風が吹き抜ける読後感があるのです。

 

 

短くまとまっていて読みやすい訳文でした。これから読もうという人にもこの増田俊樹さんバージョンをお勧めします。

 

 

 

 

 


 

(特別紀行)ヘンリー・ダーガー/非現実の王国で(カクヨム紀行)

 

 

どうも( ^_^)/

 

0歳の姪にまだ受け入れられない者です。

 

誰にでも懐くペンギンか子猿のようだったのが、自他と親密な人間とそうでない人間の区別がついてきた成長の証です。

 

 

こうして人は人としての中身を得ていく。

 

しかし、いつまでも空白であったら、どうなるのでしょう。

 

 

(死後公開されたヘンリー・ダーガーの部屋。家主のネイサン・ラーナー氏が片付けたので小綺麗になってるが、元は足の踏み場もないゴミ屋敷だった。)

 

 

Newtonの四月号で、『ためこみ症候群』という病気について知りました。

 

 

この特徴が、非常にダーガーの収集癖と物への強烈な偏愛に合致していました。

 

1.物を集めすぎる・・・無料の物を不必要に取ったり、ゴミを集めてきてしまう。

2.物を手放せない・・・物に対する愛着が強すぎて、片付けや捨てることを強く拒む。

3.物を整理できない・・・物を分類・分別ができないため、整理・収納ができない。

 

ダーガーの死後、片付けに入った家主が見た部屋は≪四十年分のゴミとジャンクの集積≫で、捨てるのにトラックが二台必要になるほどだったそうです。

 

十字架、壊れたおもちゃ、テープで貼り合わせたいくつもの眼鏡、左右不揃いのぼろ靴、旧式の蓄音機にレコードの山。紐で束ねた新聞や雑誌の束は天井に届くほど積み上げられ、床には消化薬ぺプト・ビスモルの瓶が転がっていた。

(『ヘンリー・ダーガー 非現実を生きる』 P.010より)

 

ベッドは寝られる状態ではなく、ダーガーはもっぱらソファで寝ていたともいわれています。

 

そのゴミ屋敷の中に、アウトサイダーアートの傑作があった。

 

ためこみ症候群の人は創造性がある人もいるそうなので、その特徴が最も顕著に出たのではないでしょうか。

 

 

とはいえ、ダーガーがためこみ症候群であったという仮説は、ダーガーが女性器の存在も知らない知的障害者であったという説と同じ程度に根拠薄弱なので、勘ぐりはこの辺でやめておきましょう。

 

 

前回はダーガーの作品の面白さをいろいろ語りましたが、今回は別の角度から光を当て、彼の作品にある虚無や空白について思いをはせてみたいです。

 

 

『非現実を生きる』に寄稿された丹生谷(にぶや)貴志さんの評論を引用しつつ、語っていきます。

 

 

まず、作品の“くどさ”について、マグレガーの縮尺版を「見事すぎる」としたうえで、ジム・エリッジの文章が引用されます。

書かれたものを満たしているのは、グランデリニア軍とアンジェリニア軍との間のほとんど百科事典を読まされているかのような詳細さで延々とくだくだしく続く記述、同じくだくだ示唆で続く何十人にも及ぶメイン・キャラクターの記述、似たような数え切れないほどの冒険の終わることのない繰り返しである。そこには実際のところクライマックスと呼び得るもの、事件が解決に至るといったプロットというものは無く、ただただ延々と続く戦闘場面、てんでんばらばらの長話、信仰を断ち切るように入り込んでくる脱線話、数え切れないほどの大破滅の記述……それが文字通りダラダラと果てしなく延々と続くのである。(同書 P.140)

 

妙訳版だけ読んだ我ら一般読者には分からない部分ですが、どうやら『非現実の王国で』は、山も谷も落ちもない冗長さを備えているようです。

 

 

しかし、神は細部に宿るわけで、自分の内側に自分だけの『王国』を作り出すためには、そういったある種のつまらなさは必要不可欠だったのではないかと思うのです。

 

 

そして、その無駄な“くどくどしさ”に、ダーガーフリークは引き付けられるのではないか。

 

 

自閉的、スキゾイド的な自己満足の作品を延々と書き続けたのは、物語を書いたことのある人なら少なからず憧れの念を抱くパーソナリティだと思います。

 

 

誰にも読まれない物語が“書かれた”という結果ではなくて、“書き続けていた”過程、それを行ったある種の狂気に惹かれてしまう。そして、その狂気を、可能なら得たいと思う。どうでしょうか。分かる人にしか分からないタイプの話かもしれません。

 

 

だから、『非現実の王国で』が面白いとかつまらないとか、そういう物差しの話はどちらでもいいのですよね。


ヘンリーは書いた。奴はやった。やり続けた。

 

研究者ですらうんざりする文章だろうと、何はともあれその成果物を読みたい。

 

そういう話です。

 

 

 

また、ダーガーは今風にいうところの、『文章のサンプリング』ともいえる書き方で物語を紡いでいたようです。

 

主にゴミ捨て場で手に入れただろう、多くは二流ペーパーバックやら新聞、映画パンフレット、広告、『ライフ』『ナショナル・ジオグラフィック』誌を始めとする雑誌等々から必要に応じて切り貼りした文章をコピーしたものにちょっとした変形を加えたものを膨大に含んでいるのである(P.140)

 

ダーガーは、当時の社会の中で「いないことにされていた」本当の意味で孤独な人間でした。

 

天涯孤独、低賃金労働者、(当時の価値観で)性的逸脱、奇矯な振る舞い。

 

なまじ、安アパートの住人としては一人で生きていけてしまうが故に、誰からも放っておかれた。

 

ダーガーはそんな生活の合間に、言葉さえ外部から調達し、混ぜてこねて、叩いて切って物語を紡いだ。

 

そうしてできた世界はどこかで見たことがあるようなどこにもない世界でした。

 

 

誰よりも虚無を抱えた人間が、あまりにも豊かな世界を創造してしまったということです。

 

 

本当に、興味の尽きない人物です。

 

 

 

どうも( ^_^)/

 

コーヒーをちょっと飲み過ぎているので、ロイヤルミルクティーに改宗した者です。

 

老化を恐れているわけではありませんが、ポリフェノールは摂り続けます。

 

 

 

 

今月は三本ライブをやってきました。

 

オープンマイクなどもやったのでかなり詰まったスケジュールで、ちょいちょい温泉やら焼き肉の食べ放題やらを挟みながらこういうタフな3月も悪くないと思いました。

 

4月に向かう前にひとつ出会ったアーティストたちをまとめておきます。

 

3/14 

岐阜CASPER

バレンタインにチョコを貰ったわけではないですがホワイトデーなので歌を贈りますライブ(仮)

 

ホワイトデーということで、下呂温泉名物しらさぎ物語を持参していきました。左端のキットカットは、おかもとさんからいただきました。

 

セットリスト

01.アンダードッグ

02.クラゲの唄

03.虹ヶ原ホログラフ

04.Heavenly Letter

05.エンドロール

 

リハで調子に乗り過ぎて最後に声がかすれロックなライブになりました。

 

こういう分かりやすく反省点の見えるライブはむしろ良いところ探しの日です。ヤケにならず、粘り強く声を出し続けられた点は、一つ、成長だったかなと思いました。

 

共演者紹介(敬称略)

 

Act.01 おかもと

 

 

ウクレレなどもたしなむ、秦基博フリークの癒しボイス弾き語りマンです。

 

ファルセットのように力感のない歌声ながら当て感がいいのか、ハイトーンでポーンと抜けます。ガラスとシルクでできた歌声とでもいいましょうか。

 

 

Act.03 Mino

 

 

こんなファンキーでロックな姿なのに、普段は高校で英語教諭と吹奏楽部の顧問をしておられるミュージシャンです。

 

ザ・バンドやプリンスなどを嗜好しながら、日常の情景から作り出されたオリジナル曲もいい感じでした。普段はもっとエログロナンセンスな楽曲を繰り出してくるんですが、今回は若い頃に作詞作曲した“清い”曲だったそうです。

 

 

Act.04 ゴブンノニテンゴ

 

「客が来ねぇ!!」とステージ上で叫べるのはある意味、実力の裏返しです。

 

俺なんかもういつものことだから、集客に関しては何にも言わないし言われません。しょうがないじゃありませんか、カリスマ性が無いんだから。

 

 

ところでこのカリスマ性をご覧ください。どうですか、一度でいいからライブに足を運びたくなったでしょう。

 

愛と狂気のアコースティックバンド、マイナーコードにコンバージョンしたサザエさんの歌はもはやポストブルースロックとさえいえます。

 

3/20 

新栄ROLLING MAN

音楽漂流記Vol.30

 

「音楽漂流記vol.30」 - ツイキャス (twitcasting.tv)

(2021年4月3日までアーカイブが視聴できます)

 

 

こちらはお昼12時半からの出番という、一年以上無かった時間でのステージだったので、寝て起きる時間から、食事や水を飲むタイミングまで気を遣って、徐々に喉を作りながらやっていきました。

 

その結果がどうなったのかは、ツイキャスプレミア配信¥2000‐で確認できます。余裕ありましたらチェック、お願いいたします。

 

セットリスト

01.死にたい記念日

02.虹ヶ原ホログラフ

03.ダンゴムシの歩き方

04.Heavenly Letter

05.アンダードッグ

06.クラゲの唄

 

共演者(敬称略)

 

Act.02 Tomoya(STMY)

 

 

 

 

ソロプロジェクトのロックバンド活動と、ソロ弾き語りライブを両立しながら活動しているシンガーソングライターです。

 

王道のブルースロックの中に、ポピュラリティもあり、みんなで歌って踊って乗って行けるステージでした。

 

が、ご時世的に、今はぜんぶできないという逆風のライブ情勢です。そうした部分に立ち向かっていくのもまた、ロック精神というやつなのかもしれません。

 

 

Act.03  くまがわ提丞(だいすけ)

 

 

名古屋でラジオのレギュラー番組をやっており、その流れで毎月名古屋各所でライブをやってくれている神奈川のシンガーソングライターです。

 

昼下がりのライブバーに合った選曲で、毎月一度ないし二度くらいしか会えない名古屋近郊のファンたちと親交を温めていました。

 

音楽はコミュニケーションだと改めて思いました。

 

3/25 

鶴舞DAYTRIP

 感情表現

 

中四日のライブにも少しは慣れてきたような気がします。

 

ライブ前に仲間内で焼き肉の食べ放題に行くというよく分からない無茶をしましたが、上手くマネージメントして、ベストコンディションでライブに臨めました。

 

セットリスト

01.この指とまれ

02.Heavenly Letter

03.そして、未だ蕾のプヤ・ライモンディ

04.アンダードッグ

05.クラゲの唄

 

裏テーマで、25分の短いステージになんとか五曲をねじ込むというのがありました。二分ほどはみ出ましたので、それだけが反省点でした。

 

 

(敬称略)

 

Act.01 村田篤哉

 

 

栄で財布をすられ文無しになった悲劇のシンガーは、俺の奢ったビールの缶を持ってのステージです。

 

声を内に込めて吐き出すような歌は、切実ですが妙に耳心地よく響きます。

 

これからもいろいろいろいろあるでしょうが、捨てる神あれば拾う神ありの精神で、いやちょっと酒を奢(おご)った程度の俺が神だなどと驕(おご)るつもりではないですが、そうやって活動を続けて欲しいと思います。

 

 

Act.02 きゃんべる☆

 

 

 

こちら、仕事に殺されかかってる系シンガーソングライターです。

 

まぁ、よくある話ですよ。絶望的なことですが。

 

そんな鬱屈とうっぷんを晴らすように、普段は明るいメジャーな曲が多いタイプの彼女が今日は吠えました。

 

結果的に、非常に高低差のあるエキサイティングなステージになったんじゃないでしょうか。

 

 

Act.04 Ryu Kuriya

 

 

 

 

偶然ですが、撮れた写真とYOUTUBEのサムネイルが非常によく似ています。こういうスタイルで歌いちぎっていくロックミュージシャンでした。

 

歌でもMCでも酒で作った(多分)ハスキーボイスで叫び響き轟かすライブです。

 

四十路を迎えてもエネルギッシュにパワフルに、いいじゃないですか25分ステージを30分やったって、はみ出すのもまたパワーですよ。気にせず駆け抜けていって欲しいです。

 

 

Act.05 青春ひとりぼっち。

 

 

 

 

 

今回、ベストショットが撮れた魂のミュージシャン。きゃんべる☆ちゃんとのコラボも決まり、内容は駄菓子屋のババアとの思い出を振り返る口の悪い楽曲でしたが、なんだか変に清涼感がありました。

 

で、そこからは一気にギアを入れて、汗をかき散らしながら歌う熱闘ぶりに、フロアの涙を誘っていました。

 

出演順が奇しくも年齢順で、次第に年かさになっていくにしたがって熱量が上がっていくという、別に若さがバイタリティやステージングの熱さだけで決まるようなもんではないとはいえ、ひとつ、勉強させてもらいました。

 

 

 

そして、明日から4月です。今のところ2本決まっており、もうひとつできればいいなと思ってます。

 

 

2021.4/10(土)

岐阜CASPER

出演

渋じぃ/まこ&ジェリ/祖父江直人/Ucoxchacha

Open/Start 17:45/18:00

Ticket ¥1,500‐ (+Drink \500‐)

 

2021.4/17(土)

笠寺観音 フリマクリマ音楽隊
出演

安藤延晃and his band/Hand to Hand/河原龍夫のHah-San Club Band/KMK40/ねね&よっち/祖父江直人/
開演10:00-14:00 観覧自由
(CD等物販あり / 投げ銭歓迎)
場所;笠寺観音構内

 

 

 

4月もお昼のライブがありますね。また日常から良い過ごし方ができればいいです。