問題が発生した時に書くのがこのブログです。

問題が無いときは、何もする必要が無いのが、私です。

問題発生で、自分に自信が持てない時、不安な時、、、
そんな時に、頭を整理する場がここです。

さて、今回の問題は、「ここ」は必要か?という問題です。
つまりこのブログは要るの?
ってことです。

ネット社会に頼りきりで、これが無ければ解決できないような人間を作って良いのか?
現実社会の実態ある社会生活の中で育まれてきた、社会性を、このネット社会において代替して良いものか。

現実的に、利用者が◯◯万人で、
既に存在する社会としてネット社会は存在する。

でも、だから、それに頼って良いのかは議論が起こる。
背景にあるのはネット社会の脆弱性の存在である。

ネットはその利便性によって、価値を多様化し、存在意義を拡大してきた。

しかし、それは膨大な設備開発に基づく、技術開発の土台に乗っている。

その土台に乗っているということの意味を、利用者は知らない。
この知らないということが問題を複雑化させる。
知らなければ「仕方なさ」が生まれる。
そこに正当化の論理が生まれる。

ネット社会は、意図的に作られた社会である。
しかも、それは近代的社会の最先端である。
つまり、地縁コミュニティを脱した、新たな社会の形成である。
しかし、この社会が実態社会を代替することでいくつかの問題が生じてくる。

その問題に付いてはここでは触れない、
なぜなら、それが良いのか・悪いのかは、主体によって異なってくるからだ。

資本主義経済下の産業に依存して生きている人と
オルタナティブを目指す社会構造の人々では、その答えは違う。

私はどちらの立場であろうか。
数ヶ月に一度の依存は、「依存」と呼べるのか。

失ったところで、生きていく強さを持ち合わせているのか。

そもそも、どういった文脈の中で、私は生きているのか。


ブログを書く時、そうした問いに苛まれる。
気軽に言葉を綴ることはできない。

人が言葉を綴るのは、
相手がいて、
何かを伝えたい、
その意図があるからだ。

言葉はすでにイデオロギーになっている。

では、ゼロ(0)の概念から、
言葉にゼロはあり得るのだろうか。


専門性に特化すればするほど、仲間がいない。

同じ専門性を持つ人間が限られている。

議論ができない。

少数の派閥なのに、一人一人のレベルが違いすぎる。
(私がイチバン下。)

就職の際はライバルがいなくて楽になるかと思いきや、ライバルがいようといなかろうと、
敵は自分と上の人達。

そして、その派閥も消えていくのではないかという不安に駆られる。

専門性は大切だが、やりたくない分野もやらなくては。
先生がそう指摘するのは
長期的な視点からかもしれない。
親不知(オヤシラズ)を抜きました。

なぜ親不知は抜くのか?

聞く所によると、
人間は進化の過程で、アゴが小さくなったらしく、
歯の生えるスペースがなくなり、異常な形で生えてくるようになり
それにともなって痛みが発生したり、食べかすがたまりやすくなることで
虫歯になるなど、トラブルメーカーになっているため抜くみたいで。

どうせだったら、必要ないんだから退化してくれよ
と思ってしまうんですが、そう簡単に歯は変わらないんでしょうね。

でも計4本。
辛いよなー。


私は人間は自然な形が一番健康だと思っているんですが、
自然に生えた状態が非常に迷惑な存在という親不知。

何とも解せない。

人間はそもそも進化の過程そのものが間違っていたということなのでしょうか。

つまり「自然」の反対としての「人工」というのは
人間の進化の過程で生まれてきたということなのでしょうか。

おいしくご飯が食べられないし。
原始時代だったら、どうしてたかなと想像し。
無理矢理食うか、食べずに死ぬかかな。

と勝手に極端な判断をしてしまっています。

あー、早く治れ!