このまま行けば将来は見える。
何も無ければ将来への展望は伺える。
(当然色んな困難は付随するけど)

そんな道に立っているのに、つい油断する自分。
油断すると、少しずつ楽な方へ、楽な方へ

いつしか、道を外れていることに気がつき、落胆する。

自分が進もうとする道は決して楽ではないのはわかっている。
でも、油断するのは、環境に原因がある。
原因となる環境とは

『一人であること』

だと思う。

他人の目がないと私は自分を律することができない。
と言うことで、一人のときには仕方ないと言い訳を正当化しているのかも知れない。
(確かにその節はある。一人でもやる人はやる。)

でも確かに、私は他人がいると負けず嫌いの根性を出す。
四六時中他人と生きなければいけない環境に自分を置くことが一番なのだが。

休日は独りぼっちだ。
自分でマイペースに生きてしまう。
その方が楽だし、利己的にもなれるし、痛みが少ない。

それでも、こと勉強ということに関しては、一人の私は馬鹿だ。

環境

進学する際に、一番の理由として勧められた。
環境さえ良ければ、例えどんなにバカでも、悔しさを跳ね返す努力さえできれば、なるようになっていく。

人は環境によって育てられ、そして自らも環境を形作る一部となっている。

特に人の環境。いかに緊張感を持った人間関係を維持できるか。


一人でいるときに気が休まるのは当然だ。
でも社会で生きる人間は一人の心地よいぬるま湯に浸かっていては腐ってしまう。

明日こそは人のいるところへ行こう。


それとは別な話だが、
今日一日、殆ど誰とも話さなかった。
話したのは、買い物の会計のやり取りくらい。

こんな私は、何なのか。
引きこもり?

でも、これが普通だから、私はいつもあまりペラペラとは話す習慣がないし、一方でこんなところにズラズラと文を書いているのかも知れない。

すべてはどこかでつながっている気がする。
過去を振り返ると、時々寂しくなります。

あんなに仲の良かった仲間も、既に新しい道を歩いている。

自分もずいぶん遠くへ来てしまった。

時代を突き進むことは、いつか過去からの寂しさの応酬として、我が身に降り掛かってくる。

たまには地元に帰らなければね。

でもやはり成長という変化はしてなきゃね。

時代を生きる人間達には関係のないことかもしれませんが、多分色んな人が過去を振り返る度寂しさも感じているのではないでしょうか。

音楽が、寂しさを誘います。


行動で見返そうと、ぐっと口に出したいのを我慢して、
それをエネルギーに突っ走る。

そして、成長した自分を見せる。

そのときにはもう見返そうとか何だという気持ちはすっかり無くて、何だか過去の自分にしてみたらすっぽ抜けですが、

それが時代

過去と今と未来を生きている

証なのかとも思います。


何かを覚えようとしてなかなか覚えれないこともたくさんあるけれど、

忘れることの方が難しい。

人の記憶は難しい構造ですね。



とうとう私も学術の世界へ足を踏み入れた。
今までがなんだったのかと思うほど、学問はまだまだ先の見えないものだった。
まだまだ私の知らない世界がいっぱいある。

しかし、将来への不安は重たい雲となって空を塞ぎ込む。

あと何年勉強すれば私はものを理解する方法を知り、解釈ができるようになるのだろうか。

途中で挫折したものにはそれなりの汚名が残される。
リスクは高い。
しかし、忘れてはならないのは大きな夢があるということだ。
どんなことがあろうと、夢の為にやるしかない。
すべての人が私を見放しても、社会の中でひっそりと私は夢を追い続ける。

やりたいこと以上にやらなければならないことは多い。
しかし、やりたいことができる幸せというのは
今の現実社会で夢幻の存在だ。

それをかなえてこそ、私は自分自身の生きた証をはっきりと示せる。