私はいったい何を目的に生きているのだろう。
それを問うのは哲学なのだろうか。

哲学は何も生まないのだろうか。
生むのは思い入れだろうか。

しかし、そんな日々黙々と悩み続ける私は
悩まぬ人を軽蔑している。

悩まずして答えは得られないと思っているからだ。

悩み悩んだ結果。
他人の悩みがわかるようになってきた。

なぜ悩んでいるのか。
答えは見つからないことも私は知っている。

だから、私は安易に相談に乗れるような人間じゃない。
私が話すのは、私の視点から見た現実。

それは非情な答えであったりする。

何の為に生きているのか?という問いに

私自身わからないから。
「きっと何かのためということではないんだ」と
言ってしまう。

きっと自分の生きる目的は
自分で悩んで探し続けるしかない。
だから、相談して答えを探そうとすること自体が安易なのだと。

私は頭がおかしいのかと時々思う。
普通ではない。
でも普通というのは大衆にとっての一般性でしかない。
人はそれぞれどこか普通ではない。

精神障害者も身体障害者も天才もバカも
当たり前に普通ではない。

普通は集まって普通なのだ。
マイノリティに普通はない。

そして私も普通の人間ではなかった。
それだけのこと。

それが役に立つことなのか、無駄なことなのか
それは私にしかわからないはずだ。

なのに、世間は普通であることを求めようとする。
なぜだ。

異常者に見られたくはない。
普通の格好をして普通の人に見られたい。

心の矛盾がまた一つ現れてきた。

人に見られることを意識すると、自分に普通を演じる自分を作り出す。
仮面の下ではいろいろ考えているのに。


銀行強盗は社会があるから銀行を襲い、貨幣の価値があるから襲う。
社会の仕組みや秩序自体を壊せば銀行強盗の意味すらなくなる。


人間はどこかの社会で生きている。抜け出せない社会。
それを探し、そこで生きる意味を見つけるのかもしれない。
人はなぜ酒を飲むのか。

アルコールは毒だ。血中濃度が少し上がるだけで人は死ぬ。

酔うために飲むのか。
楽しむために酔うのか。
つらさを忘れるために酔うのか。

酔った自分もしらふの自分も、私に変わりはない。

感覚をなくし、思考をなくし、記憶をなくす。
死の疑似体験といったところだろうか。

酔うと理性が薄れ、感情があらわになる。
本音が言いたいのだろうか。


私はお酒は好きだ。
お酒自体よりも酒文化が好きだ。
酒を飲むという人間のバカだけど趣き深い行為が好きだ。
だから金儲けよりも、守ってほしいものがある。

国はバカらしい酒税法を強い
消費者は安さを求め、
醸造メーカーは安いだけでなく質の低い酒を造った。
居酒屋は酒文化を金銭感覚に変えてしまった。

そんな昔の出来事を未だに繰り返しては欲しくない。

一杯の酒。
それをありがたく、おいしく、そして豪快に飲める習慣を誰か広めてほしい。
自由は人をだめにする。

暇は求めるから良いのであって、実際に暇になるのは人を堕落させる。
だから理想主義者が自由を語るのは良いことだ。
でも実際に世界に自由をもたらしては社会は崩壊するし、そんなことはあってはいけない。

経済的豊かさを手に入れた日本は、直接的に生きるための活動(衣服を作り、食べ物を作り、住居を作る)をしなくてもほとんど支障なくなった。

だから学生の私は、親の仕送りで遊びほうけられるし、一日中ネットに取り付いたりできてしまうのだ。

自由を越えるのは人間の理性だ。

自由の中でも、自分に厳しくストイックに生きれるか。

他人の生き方がすごく気になってくる。他人が堕落していれば自分も堕落する。
周囲の環境は非常に重要な要素ではないだろうか。

だから

生きることをやめてはいけない。
便利さに飲み込まれてはいけない。
そういうライフスタイルを日頃から作っておかなければならない。

なるべく自炊する。
なるべく歩く。

選べる自由に克つのは自分の感性からくる理性だ。




究極の楽観者は、否定することを知らない。
世の中では肯定することの大切さを宗教的に叫ぶが、否定することの重要さはあまり教えてもらえない。

NOと言えるのは自分の考え方をしっかり持っているからだろう。
NOが言えないために矛盾を招き、それをスピリチュアルの世界で納得しようとするのは自己中心でしか物事を考えられない証だろう。

生活力というものが私は大切だと思う。
どんなにすばらしい体験をして、それを人に伝えられても、生活が荒んでいたらなんだか、説得力もなくなる。
他人に頼らず、自分の力で社会の中で生きていける。
その上で他人と協力することも覚えてほしい。

人は一人で生きていけないというような文句に逃げるのではなく、せめて自分のことは自分でなんとかしてやろうという意思が根底になければ、私は助けたいとも思わない。


私の提供する優しさや自由に飲み込まれるのではなく、理性を持ち、自分で生きることによって共に新たな創造ができるような考えを持っていてほしい。