砧打て
今回も、本意の話をしましょう。
秋の季語に「砧(きぬた)」というのがあります。
砧(兼三秋)
木槌(きづち)で布を打って布をやわらげるのに用いる石または木の台を言い、またそれを打つことにも言う。麻、楮(こうぞ)、葛など植物の繊維で織った着物は、洗うとかたくなるので、打ちやわらげるのである。女の夜なべ仕事として、古来詩歌によく詠まれ、夜寒の侘しさの感じが付随している。(後略)
傍題:衣(ころも)打つ・擣衣(とうい)・夕砧(ゆうきぬた)・宵砧・小夜(さよ)砧・遠砧(とおきぬた)・砧の槌(つち)・砧盤(きぬたばん)
山本健吉『基本季語五〇〇選』(講談社学術文庫)
「古来詩歌によく詠まれ」とありますので、例歌を挙げておきましょうね。
擣衣の心を
み吉野の山の秋風さ夜更けて
ふる里寒く衣うつなり 藤原雅経(ふじわら-の-まさつね)(新古今集)
│みよしのの○○│やまのあきかぜ│さよふけて○○│ふるさとさむく│ころもうつなり│
で、砧の本意ですが『基本季語五〇〇選』の次の山本の記述が、それをうまく捉えています。
“砧を詠むには、発想に一種の型があって、夜寒の秋の夜長に、どこかで打ちつづける悲しい拍子の砧の音を、こちらも起き明かしてしみじみと聞いている、といった歌が多い。その音は、良人をどこかに旅立たせて孤閨(こけい)を守る妻が、思いを籠めて打つ音と聞こえる。それは砧の音に、遠征に徴発された妻の怨情を読み取った唐詩に発していよう”山本健吉『基本季語五〇〇選』(講談社学術文庫)
山本の云う「発想の一種の型」は、本意のことですね。
雅経の歌は、本意をまことによくふまえた詠み方です。
「夜寒の秋の夜長に、どこかで打ちつづける悲しい拍子の砧の音を、こちらも起き明かしてしみじみと聞いている」まさにそういう歌ですよね。
「遠征に徴発された妻の怨情を読み取った唐詩」というのを挙げておきましょう。
子夜呉歌(しやごか) 李白
長 安 一 片 月
〔長安一片の月〕
萬 戸 擣 衣 聲
〔万戸(ばんこ)衣(ころも)を擣(う)つの声〕
秋 風 吹 不 盡
〔秋風(しゅうふう)吹いて尽きず〕
總 是 玉 關 情
〔総(す)べて是れ玉関(ぎょくかん)の情〕
(玉関の情:遠く玉門関に遠征している夫への思い)
何 日 平 胡 慮
〔何れの日にか胡慮(こりょ)を平らげて〕
(胡慮:北方のえびす。匈奴)
良 人 罷 遠 征
〔良人遠征を罷(や)めん〕
(良人:夫 罷めん:やめて帰ってくるのだろう)
砧の本意は、元をただせば李白のこの詩までさかのぼれるんですね。
砧に「夜寒の侘しさの感じが付随している」のもこういう歴史があるからなのです。
さて、発句です。
碪打て我にきかせよや坊が妻 松尾芭蕉(まつお・ばしょう)(1644~1694)
│きぬたうちて○│われにきかせよ│や○ぼうがつま│
上五・中七字余りの破調、もちろんこの破調は計算され効果を狙った、破調です。
秋の夜長が、リズムの上からも感じ取れます。
碪打ち我にきかせよ坊が妻
だと、なにか催促しているみたいで、落ち着いた静かな感じは出てきません。
「きかせよ」この命令形で充分切れているのですが、さらに切字「や」を入れて内容にふさわしい調子を整えているのですね。「碪打て」の「て」も同様です。
この句には「ある坊に一夜をかりて」という前書があります。
「坊」は脈絡から「宿坊」を指すようです。
ぼう【坊】バウ
(慣用音はボッ)
①ア)区画されたまち。市街。「坊門・京坊」
イ)都城制の一区画。4町四方の称。「条坊」
②春宮坊(とうぐうぼう)の略。源氏物語桐壺「―にもようせずはこの御子の居給ふべきなめり」
③僧侶の住居。転じて、僧侶。源氏物語若紫「かみの聖の―に、源氏の中将わらは病まじなひにものし給ひけるを」。「坊主(ぼうず)・僧坊・宿坊」
④男の幼児を親しんで呼ぶ称。男の幼児の自称。「―や」「―ぼつちゃん」
⑤ある語に添えて、親しみまたは嘲りの気持を含めて、「…な人」「…する人」の意を表す語。「風来坊・けちん坊・朝寝坊」
[株式会社岩波書店 広辞苑第五版]
「碪打て我にきかせよや」は、その一夜を貸してくれた宿坊への挨拶でしょうね。
李白が「何れの日にか胡慮を平らげて/良人遠征を罷めん」の情を聞き取ったという砧を打って、私に聞かせてくれませんか、ということですよね、とりあえずは。
問題は「坊が妻」。
何なんでしょうね、これ。
「僧侶の妻」?
まあ、僧侶が妻帯していることはあったかもしれませんが、そうだとするとこの「坊」は、僧侶の個人宅になってしまいます。
それでもいいのですが、そう解する国文学者もあるのですが、、前書の「ある坊に一夜をかりて」は宿坊と解するのが自然ですから、これは却下します。
「坊が妻」何でしょうね。
つま【妻・夫】
①配偶者の一方である異性。
ア)婚している男女間で、互いに相手を呼ぶ称。男女どちらにもいう。また、第三者からいう場合もある。万葉集4「もののふの八十伴緒(やそとものお)と出で行きし愛夫(うつくしつま)は」。万葉集20「花にほひ照りて立てるは愛(は)しき誰が―」
イ)転じて現在では、夫婦の一方としての女。
②(「具」とも当てる) 刺身(さしみ)や汁などのあしらいとして添える野菜・海藻などの称。また、主要なものを引き立てるために軽く添えるもの。「話の―にされる」
③〔建〕(「端」とも書く)
④建物の長手方向のはし。棟と直角の壁面。
⑤切妻(きりづま)や入母屋(いりもや)の側面の三角形の壁面。
[株式会社岩波書店 広辞苑第五版]
宿坊の配偶者(女)なんでしょうか?
宿坊の主の配偶者?
でもねぇ、ここで個人がでてくると、宿坊という公共施設への挨拶としてはふさわしくないですよね。
まあ、この説を採る人もいますけど、私はこれも却下したい。
私の考えを云いましょう。
「坊が妻」は、宿坊という公共施設において世間でいう妻の役割をになう者、これでしょうね。
つまり日々の雑事を担当する、寺に預けられた年少の僧、小僧さんたち、これです。
「ある坊に一夜をかりて」
宿泊する芭蕉の世話をしたのは、小僧さんたちでしょう。
日々の雑事として、小僧さんたちが砧を打っていたのかもしれません。
宿坊に案内されたとき、その音が聞こえたのかもしれません。
そういう日々の雑事をかいがいしくこなす小僧さんたちの姿を見て、芭蕉は「坊が妻」と詠んだのではないでしょうか。
宿坊の長へ、あるいは宿坊そのものへ挨拶の心をこめて「坊が妻」と詠んだのではないでしょうか。
秋は、小僧さんたちの実家でも、母親が砧を打つ季節です。
「何れの日にか胡慮を平らげて/良人遠征を罷めん」これは良人への思いですが、実家の母親はわが子を思って砧を打っているのかもしれません。
「何れの日にか仏道を修めて/わが子修行を終えん」というような。
そして、小僧さんたちは、そういう母を思って砧を打っているのかもしれません。
ここに、この句の誹諧があります、本意からの飛躍があります。
昔、李白は砧の音に孤閨を守る妻の遠く遠征の地にある良人への思いを聞いたが、私は、今夜泊めていただく宿坊であたかも世間における妻のようにかいがいしく砧を打つ小僧さんたちに、遠く離れ離れになった母親への思いを聞き取ったのですよ。
ゆえに「碪打て我にきかせよや坊が妻」。
どうだろう?こう読めないだろうか。
いずれにしても、珍説なんだろうけどね‥。