満州事変とわたし | ouroboros-34のブログ

ouroboros-34のブログ

こころに映りゆく由無しごとを其処は可となく書き付けて
ごうなっだのでありますぐるらめ。

うっかり過ごしてしまいましたが、おとといは満州事変が起きた日でした。

写真のような日本軍の「布告」がはりだされました。

中国軍が日本軍の管理していた南満州鉄道を爆破したというのでした。つまり中国が日本に戦争をしかけたというのです。実際は全く逆で日本軍が自分で鉄道を爆破していたのでした。中国に対して戦争をしたかったのでその口実に関東軍が独走したのでした。布告は次のように書きだされています。


為布告事照得昭和六年九月十八日午後十点三十分時中華民国東北辺防軍之一隊在満瀋陽西北側北大営内付近爆破我南満鉄路駅其余…

昭和六年九月十九日
       大日本関東軍司令官  本庄繁

日本軍の暴虐はこうして始まりました。

わたしの生まれたところは、公主嶺街武士道通り陸軍官舎となっています。うちのまえは広い原っぱで練兵場でした。野兎がたくさんいるところが遊び場でした。庭つづきが戦場になりました。

すこしづつ持ち帰った写真を公開したいのですが、残虐過ぎて公開できません。捕虜を公開銃殺するところとか・・・
今日の「布告文」の写真はおととし東京新聞に提供したものです。

中国に土足で入って好き放題にした日本軍。日本は歴史を直視して中国に謝るべきです。

布告者本庄繁の当時のことを、はネットに、こう書かれています。
…本庄は柳条湖事件の報せを旅順の官舎で聞いた。本庄は9月7日から大石橋・鞍山・奉天・興安嶺・長春・遼陽と各駐屯部隊の検閲を行い、18日午後10時にようやく帰宅したところであった。
その1時間後、風呂で疲れを取っているところに高級参謀の板垣征四郎から緊急の電話が入った。午後10時30分頃奉天で支那軍と戦闘が始まり、緊急時であるから板垣の独断で独立守備隊を動かしたとの連絡だった。直ちに本庄は軍装に着替え、軍用列車で奉天へ向った。この間作戦参謀の石原莞爾が持参した遼陽にある第2師団の奉天派遣を決裁し、全関東軍に出動を命じた。本庄は全軍出動について不安があったようだが、移動中の軍用列車の中で大丈夫かを石原に尋ねると石原は『絶対に問題は起こりません。関東軍司令部条例第三条、軍司令官の管外出兵権条項に基づくものです』と答えた。奉天は関東軍によって占領され奉天特務機関長の土肥原賢二大佐が奉天臨時市長に就き、その他の満鉄沿線地帯もまた占領されていった。参謀本部はこの件につき「関東軍の出兵は自衛権の発動であるから認めるが、これ以上は武力行使を拡大しない」という方針を後から決定し、政府もこれを追認して閣議決定した。しかしながら、中央の命令なしで越境出撃した朝鮮軍の応援を得て、関東軍は錦州、ハルビンと占領地を拡大し続けた。…


本庄繁は日米戦後自殺しました。