歌仙「霽の巻」の句解を試みました。(その22) | ouroboros-34のブログ

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句解22霽・(庄屋のまつ)改め「晦日の刀」

変更する前の、「おかざきや」に付けた「庄屋のまつ」を見てみましょう。荷兮の番です。

  おかざきや矢矧の橋のながきかな(前句再出)
  庄屋のまつをよみて送りぬ    荷兮

安東次男は「むろん「まつ」は松、待の掛けである」として松は松平を意味して前句の「ながき」に松平家康の長期にわたる望郷の想いを蔵する、としています。古注は露伴の「長ゝゝしき橋の高みよりやゝ久しき間老松を望みたるまゝ、一首の詠をなすにいたりたるおもむきの附句なり」をはじめ、「庄屋になにか慶事があり橋の長きに譬えて祝した」などと評しています。一つの句に①相対の付け②匂い付け③起情の付けなど異見ばらばらです。

 安東次男の「庄屋の待つ」は読み違いだと思います。「長き」「待つ」は縁語ですがベタ付け、その前の句が「馬のかほ」これまた「長い」の縁語です。完全に観音開きとなりアウト。上りに変わって下りのほうを見ると、次句が「長にのびつ」、次々句が「刀」(俗に「長物(ながもの)」、業物(わざもの)などという)。観音開きが禁忌の筆頭なのに、5句連続して「長い」を続けるのはどう見てもおかしいでしょう。

———庄屋の松、あなたの勧めで今見てきたが見事だったよ。一句送りますので見てください。
が、この場合の最も適切な句解でしょう。

既述のように、歌仙「霽の巻」は「二十韻(20句)」と「首尾吟(16句)」の前後編分離して成るという変更後の推想のもとに句解をすると、「発句と脇」は
  (発句)おかざきや矢矧の橋のながきかな    杜国
  (脇句) 晦日をさむく刀売る年        重五 

 脇句は定法どおり体言止めになっています。

「晦日」は、毎月の最後の日を指し「つごもり」ともいい、季語ではありません。「晦日蕎麦」は「年越し蕎麦」のことですが、大晦日蕎麦の略語です。こちらは初冬の季語です。
「さむく」は一見、冬の季語に見えますが淋し(さむし)で無季、「晦日をさむく」は「懐がさびしい月末で」という意味です。古注や安東次男は「大晦日」と誤解していますが「さむし」の誤読が原因です。
付(つけ)は、前句「矢」に対する「刀」の物付で無理のない自然なツケになっています。
季語はまったく無く雑の句ですが、全体の印象から冬の句と思わせる珍しい作りとなっています。

———かけ取りに追われて武士の魂である腰の物をいずれカネに替えねばならない仕儀になりそうだ。この先なんとしても長い橋を渡り切らねばならないのだ。

と解釈しました。いかがでしょうか。

  捨し子は柴苅(しばかる)長(たけ)にのびつらん   野水

表面的な意味はなんということはありませんが・・・