回文俳句日記12月9日兼題「漱石忌」 | ouroboros-34のブログ

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こころに映りゆく由無しごとを其処は可となく書き付けて
ごうなっだのでありますぐるらめ。

  漱石忌口惜し胃弱鬼気少ぞ
  ———そうせききくやしゐじやくききせうぞ /

夏目漱石は、鬼気迫るような青白い小説家像からほど遠く胃弱で青白いという人間味ゆたかな小説家だった。命日は十二月九日である。

漱石は私も人並みに読んだ。
繰り返し読んで暗誦できるほど馴染んだのは、「草枕」でしょう。
俳句を小説にちりばめたのが純粋小説として斬新で、小説もこのように散文詩であってこそ純文学の重責を担いうると思ったものだった。同じ意味で泉鏡花のもの例えば「歌行灯」とか谷崎の「高野聖」を愛読したのだった。

文体は詩である。いまは、ますます、その感が強まった。
まして、俳句は短詩を標榜する以上、詞ではなく詩でなければならぬ。そう思う。
詩とは何ぞや。

詩の本質は音楽である。波であらねばならぬ。律動であらねばならぬ。リフレインが共感をよぶ。

回文俳句は構造的に詩の要素を獲得している。後半は必ず前半の繰り返しだからだ。
しかし、律動は複数回なければならない。一回上下しただけの音波はリズムではない。韻を踏んだとは言わない。
回文俳句は、ただ一回だけの波動だ。これはリズムではない。残念なことだが、回文は構造的に詩とは言えない。

形式上、韻を踏めない詩片を詩にするのは?
内容で韻を踏むしかない。仮想リズムを現実化するしかない。
そんなこと、できるのか?
(ここまで述べて、プロジューサー、そそくさと退場)
ほうりだしたままの退場で、お粗末の一幕でしたが、語呂合わせで精いっぱいなのが実情です。

ほんとうに寒いですね。電気こたつをホカスんじゃなかった。