ことしも紫陽花の句がさかんに詠まれました。
もちろんわたしも大いに作りました。
めたさんさんのブログで〈「四葩」は紫陽花のこと?〉というタイトルのブログの記事(2017-06-06付)で、テレビのプレバトの夏井いつき先生の俳句講座を見たことが下記のように述べられていました。
……「紫陽花(あじさい」)の別名として、「四葩(よひら)」という言葉が季語として二人の句に出てきましたが、夏井先生はまったくこの言葉には触れませんでした。
確かに、「あじさい」より「よひら」の方が、一音少なく、経済的で他に一音まわせるではないかと夏井先生は言いそうですが(あるいは、夏井先生の季語集にその語があるのかもしれません)、俳句を知らない私にとっては「難解季語」です。
そこで、あり合わせの辞書で調べました。
「よひら」を「紫陽花」の別名としているのは、『日本国語大辞典』と『広辞苑』などいくつか見つかりました。
しかし、この「よひら」を「四葩」と書いているのは、『広辞苑』と『三国』のみでした。それも『広辞苑』は「四片」の後に加えてです。
「葩」の音は、「は」です。
私の調べた範囲では、『諸橋大漢和』にも、この文字「葩」を「ひら」と訓読みするとは書いてありませんでした。他の学習に使う漢和辞典いくつかも、その「ひら」という「訓」はありませんでした。
どうして、俳句を作る連中は、「紫陽花」という素晴らしい日本語を捨てるのか、そして、「四片(よひら)」ならまだしも、わざと「四葩(よひら)」というのか、いささか呆れています。
あえて、繰り返します。「葩」という文字に「ひら」という「訓」はありませんよ。……
と、ありました。そこで興味がわいてウロも調べることにしました。
「紫陽花」という素晴らしい日本語があるのに俳句を作る連中はそれを捨てて「四葩」という語を使うのか?
「俳句を作る連中」のひとりとしても、これは知っておくべきだと思いました。
わたしの『俳句歳時記』(角川書店)の「紫陽花」あぢさゐ 傍題として「七変化」「四葩」。
例句10句、そのうち「紫陽花」が5句、「あぢさゐ」が4句、「四葩」が1句富安風生のもの。
まあ、「俳句を作る連中」が特別に「四葩」を愛好しているわけでもなさそうです。
次に、「紫陽花」という素晴らしい日本語があるのに…にひっかかりました。
「紫陽花」がニホンゴ?
「紫陽花」の語源は白居易の『白氏文集』の「紫陽花詩」だそうです。
道理で漢語クサイ当て字だ。
しかし妙ですね?
アジサイは日本原産種だそうですよ。
中国に無い日本固有のものがなぜ漢語名なんだ? 白居易なんだ?
これもわかってみればカンタン。
白居易はアジサイでなく実際はライラックを見て名前を知らなかったので酔っぱらってもいたし、即興で付けたということらしい。
そこで日本人がチャッカリその漢字を頂いて当てたということなのだ。
あぢさゐは素晴らしい(かどうかはわからぬが)ニホンゴだとして、紫陽花の漢字は中国服だったのだよ。
「あぢさゐ」は崇徳院や俊成の和歌にも〈あぢさゐの四ひらの露…〉とある。
藤原定家をひとつ挙げよう。
アジサイの「イ」は「ゐ」と「ゑ」の中間の音で発音してください。それが原音です。
あぢさゑの下葉にすだく螢をばよひらの数のそふかとぞみる
手毬型の散房花序は、近年でこそ五弁、重弁になっているけれども日本原生のアジサイの萼片は四片「よひら」なのです。
だから、子季語として
かたしろぐさ、四葩の花、四片、七変化、刺繡花、瓊花。
片白草ともいうがこれは半夏生の別名で混用しているらしい。
花弁が四枚だからヨヒラ。これは文句のつけようがないじゃないかな。素晴らしいニホンゴってこんなのをいうのじゃないのかな。
さて次は、四葩の「葩(ひら)」の問題だ。
「葩」がめたさんさんがいうように汚いか、だ
。
中国語ではアジサイをなんというのだろう?
綉球花または八仙花という。
さすがに漢字の本国、しゃれた名前を付ける。
断っておくが、紫陽花では通じない。
ピンクの紫陽花、ではニホンゴだってオカシいだろう。だから俳句でもこの場合は「あぢさゐ」とひらがなで書く。紫陽花なんて素晴らしい(?)妙な当て字は使わない。
中国語で「葩」はどういう意味があるのだろう?
中国語を調べてみた。
熟語にないかな?
あった。「奇葩异草」美しい花と珍しい草、という意味だ。
葩 中国読み pā
音読み ハ
訓読み ハナ
意味: 花。はなびら。ぱっと咲いた花。華やかなさま。あざやかなさま。
使用例1:御葩(おはな)散華のこと。
お寺から封筒に入れて御札(おふだ)をもらう。仏を供養するためハスの花びらの形にしたものを撒く法要。
色紙に貼ったり額に入れたりして、コレクションするひともいる。
使用例2:葩煎(はぜ)
もち米をはぜてつくる。
「四葩」。なんて素敵な名なのでしょう。ヨヒラ。語感もきれいです。アジサイなんて、これに比べたら汚いきたない。
こんな文章を見た。
春先このかた、梅・桜・山吹・躑躅など、わたしたちが感応してきているのは五弁花である。その心の隙を四弁花は衝く。
夕暮れどき、ホタルの点滅が「花の四ひら」を慕っていると定家には映った。散り漂うかのように咲く繊細な花が、仄かに見えてくる。(松本章男(随筆家))
よひらもて乳歯のひとに寄り添はむ ウロ