回文のつづき。
回文とははじめから読んでも終わりから読んでも構わない文章です、と前々回の冒頭に書きましたが、コレ、ウロの思い違いでした。
正しくは、
回文とは初めから読んでも終わりから読んでも(意味が通るではなくて)同じ文章になる文のことである。……でした。
具体的にその違いを見てみましょう。すべて自作の例文です。
罪消ゆと怡々(いい)と雪見つ君と神酒
[つみきゆといいとゆきみつきみとみき]
怡々(いい)…喜び楽しむさま。
これは回文ではないそうです。後から読むと
君と神酒罪消ゆと怡々と雪見つ
意味は変わりませんが同一文ではありません。
じゃあ上五と下五をおなじにしたら?……やってみましょう。
ニセ品かモネの睡蓮(みづはす)ニセ品か
[にせしなかモネのみづはすにせしなか]
逆からでは
哀し妹(せ)にすは!罪の根も悲し背に
意味は通りますが全く違ったものになります。
上五と下五を変えてしまっても
市価で得たモネの睡蓮ニセ品か
哀し妹にスハ!罪の音も絶えてかし
で、ダメですね。
上五(従って下五も)も中七と同じように回文にしたら…つまり、句の文節ごとに回文化したらどうでしょう?
新聞紙ば歴史仕切れば新聞紙
[しんぶんしはれきししきればしんぶんし]
毎日の新聞は最も精細な歴史であるけれども、古紙業者に亘ってはただの紙屑、というほどの意味です。
「新聞紙」はこの単語自体が回文です。この場合下五は必ず上五と同一でなければなりません。この制約がちょっと面白くない。
結局多く捨て去ることになりましたが、しかたありません。残ったものいくつかをご紹介します。
来つ棚田釘付け随き来棚田月
[きつたなだくぎづけつきくたなだづき]
棚田にやってきた。見事な月が棚田の一枚ごとに映っていて歩くわたしにぴたっと寄り添って従いてくる。
死後の河岸ゴッホは没後時価残し
ゴッホは生前認められることなく貧乏な生活に甘んじていました。皮肉なことに死後は酔狂な金持ちの商品と化したのでした。
暇しテオゴッホの没後お手仕舞ひ
ゴッホの弟のテオはゴッホが亡くなってからは、すっかりやることがなくなり暇を持て余していることだ。
静かな日そこなは勿来(なこそ)日永厨子
ちょっと自分でもよくイミわかりません。どなたか教えてください。
(お詫びとお願い)
待てと言へラビ僧に嘘ビラヘイトデマ
ラビ…聖職者
はじめは
待てと言へラビ《歯に歯》ビラヘイトデモ
だったのですが…
ふいに蝶描き留むときか筆にいふ
ふいに蝶が飛び出してきた。スケッチするチャンスを絵筆にともなく問いかけている私である。
どうにも俗に言う「蝋を噛むような」句ばかりですが…
たくさんありますよ、くだらないのが…
イカルス食らいつく即墜落するかい
栗鼠留守を縫いぐるみのミルク犬を掏るスリ
現代詩調。『酔いどれ船』風ですかね…
レアのクスリと月コルク瓶ゾンビ繰る子きっとリスクのあれ
他に…
汝が男ぬしもそも死ぬことをかな
「ら」抜き言葉の猖獗が忌まわしい。
〈ら〉が無しと?問ひつもつひと?としながら
スケッチ…
冬の来た村沓作らむ滝の夕
文学調…
ひと間を見問へザムザへと身を惑ひ
カフカの『変身』の家族の驚きのシーンといったところでしょうか。
作るうえで気が付いたことを体験から述べてみましたがご参考になればいいと思います。
今月〈睦月〉を詠み込みお別れに一句、
世や睦月陽潜(ひくぐ)る鵠(くぐひ)吉夢(きつむ)やよ
鵠…白鳥(中国名)の日本語名。