〈雲手風足〉という造語をめぐるはなし | ouroboros-34のブログ

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こころに映りゆく由無しごとを其処は可となく書き付けて
ごうなっだのでありますぐるらめ。

   ――〈雲手風足〉

  この四字熟語は漢和辞典には無い。いま私がつくったものだからだ。
しかしほんとうの熟語にみえるところがおもしろい。

 雲に巻かれると、なにもかもわからなくなる。そもそも正体のつかみどころがないから雲に囲まれていることさえわからない。
 風の形は無いのに存在がわかるときがある。動くときだけ明確にわかる。しかし、だからといって、これ、と指し示すことはできない。
 どちらも形は無く流動することによって具現化する。

 中国語はしばしばことばを擬人化する。そのひそみに倣ったのが文頭の熟語だからもっともらしくなった。
 ふっと思い出した。

 ムカシやったことがある太極拳の簡化楊24式で1起勢2左右野馬分鬃3白鶴亮翅……とすすんで10雲手(インショウ)というのがあった。地下水脈のように深層記憶にあったらしい。造語でもなんでもない立派な言葉ではないか。
意味は「雲のように手を動かす」だ。
 
 もう一方の「風」。
 「故其疾如風 其徐如林」。
 孫子の兵法風林火山だが、中国由来で以て、「はやきこと風のごとく」は、風に足があると戯画してもよいようだ。

 〈雲手風足〉。改めて四字熟語として正式登場させるとしようか。
 「手」「足」もついて擬人化になじむコトバだ。
  
  雲の手をのがれ頼みの月見かな    ウロ

  雲の手を訪へば顔出す月見宿     ウロ

〈雲ハ天才デアル。〉と言った詩人がいるが、私は当時これを「詩とはヒトを煙(ケム)に巻くことだ」と理解してやっと納得できた。
「雲手」を日本語に翻訳すれば〈雲ハ天才デアル。〉は名訳といえるのではなかろうか。

 はて、オレはいったい何を書こうとしていたのかわからなくなってしまった。

  発句なりウロ拙稿の逃げどころ    ウロ
  (原句)発句なり松尾桃青宿の春   芭蕉

 
  愚案ずるに認知もかくや秋の暮れ      ウロ
  愚参ずるにメイド喫茶は秋葉原        ウロ
  (原句)愚案ずるに冥土もかくや秋の暮れ 芭蕉


 アカスリとアカダシをあした多分まちがえる。